2018年7月19日木曜日

授業ではわからなかったこと

推古天皇の摂政であった聖徳太子が、隋の皇帝である「煬帝」に宛て、遣隋使である小野妹子に持たせた国書、「日出る処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙なきや」というのが、煬帝を怒らせたという歴史を、学校で習ったことがある。
「日没する処の」という文言が怒りを買ったという説明だったように思うが、煬帝が単なる地理的なことからくる太陽の動きを解からないはずがないから、そんなことで怒ったのではあるまい。

いずれにしても、中国の文化を学ぼうとしている時に、相手を怒らせてどうする、ということが力点であった。
しかし、遣隋使はその後も続いたことから見ても、怒りはしたが日本の立場を容認するしかなかったということになる。
聖徳太子の狙いは、中国の王しか使えないとしていた「皇」の字を、日本も「天皇」と使うことで、対等の国であると認めさせることにあった。
中国近辺の国は、中国の冊封政策に組み入れられ、朝貢することで王として封ぜられる属国扱いの時代であったから、かなり思い切った国書であった。
しかし、当時の隋は朝鮮半島の国との軋轢を抱えていたから、日本まで敵にすることはできないであろうとする、聖徳太子の的確な読みがあったのだという。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は愚かなことであったとも習った。
本当にそうだったのだろうか?
当時はポルトガルが世界に覇を唱え、東南アジア諸国を植民地化していた時代である。
宣教師を先兵として送り込み、人心を攪乱して後に乗り込んで征服するという手法は秀吉に見破られていた。
手つかずでいた中国と朝鮮半島がもしも植民地化されたら日本が危うくなる。
先手を打ってここに強大な軍事力で楔を打ち込めば、敵の狙いは潰える。
そこで見せた軍事力は、ポルトガルを畏怖させるに十分であった。
これが彼らの拠点であるルソンに向けられたらひとたまりもない。
侵略を諦めさせる結果は確実に得られたのだと思う。

それにしても、そんな昔にどうやって国際情勢を読むことができたのだろう?
我々が思っている以上に、情報収集能力を持っていたのだと思えるのである。

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