2021年8月25日水曜日

遺伝子の解明で判ってしまうこと

 

1万6千年前から日本の地に縄文文化が栄えていたことは、厳然たる事実である。

良い地であるから、そこに渡ってきた人が住み着いたのだと考える方が自然な捉え方であろう。

弥生時代に大量の渡来人が半島から稲作の技術をもって多数我が国にやってきたのだと歴史学者はいうが、それは無理すぎないか?それらの主張の根拠は、科学的に殆ど否定されてしまっている。

 

日本人の遺伝子は、半島人とは全く違うのだということがY遺伝子の有無によって証明され、同様に米の遺伝子も半島のものとは全く違うことが明白になっている。

奈良の2400年前の遺跡発掘により大規模な米作がなされていたことも、それより数百年前の九州北部で、灌漑施設がなされた水田遺跡も発見されている。渡来人が米作をもたらしたという遥か昔のことになる。即ち、コメは既に縄文時代から作られていたのだということが事実として証明されてしまっている。

縄文時代には水稲だけでなく陸稲(おかぼ)と混在していたというが、陸稲は我々が子供の頃にも畑で作っていた記憶があるから、それは間違いあるまい。

どうしても渡来人が齎した文化だということにしたい歴史学者というのがいるらしいが、どうしてなのだろう?

そういうことにしないと何か都合が悪いことでもあるのだろうか?

 

渡来人がいなかったとは言えないから混血はあっただろうけれど、民族的性質まで変わるほどの大人数が渡来したことはなかったのだと考えるのが普通の捉え方だと思う。

 

半島には縄文土器が多量に出土するし、日本式の古墳も数多く発見されている。

発掘された遺物という現実に沿って考えるなら、海洋民族である倭人が海を越えて彼の地に住みついて、その地を統治していたのだとする方が論理的である。

中国の史書に、半島の南半分は倭人の支配地であったと記載されていることも、覆しようがなくそれらを裏付ける。

日本の学者は何か都合でも悪いのか、倭の五王を必死になって否定したいようだが、史跡があるのをどう説明するのか。

好太王碑も日本軍が改竄したような説を唱えていたが、中国にあった拓本が出てきたことで、原本と同一であることが証明されてしまった。南部地域は日本領であったということになる。

 

別にどっちが先に開けたかなど争うつもりはないが、科学的に解明されたものの方が事実としての説得力を持つ。歴史の表示は事実に従うべきである。

縄文文化と弥生文化は別のものではなく、つながって日本で発展したのだと考えた方が良いのではないのか。無理して渡来説を主張しても意味あるまい。

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