人は無人島に一人住んでいるのならば別ですが、互いに助け合って集団で暮らしています。
自給自足など言って、自己完結を目指す人がいないわけではありませんが、何もかもを一人でということになると、食糧である米も野菜も作り、繊維から糸を紡ぎ、機で衣服を織る。
海や川に出て魚を採り、山野で獣を捕え、動物性蛋白質も得るとなれば、たいへんな作業になります。
農業、漁業、工業、商業と専門職により役割が分担されて、その苦役も効率的に緩和されるわけです。
その集団の中の分担において、古来より「駕籠に乗る人担ぐ人。そのまた草鞋(わらじ)を作る人」と言って、知らずに過ごしているようにみえて、多くの人に支えられているのだと諭されました。
自分が駕籠(上に立つ者の意)に乗せて貰えるのは、その駕籠を担ぐ人(下に居る者の意)があってのこと。
更にそれだけでは無くて、その駕籠を担ぐ人の為にその草鞋(わらじ)を作っている陰の力があるのだという意味合いを教えるものであったのです。
しかしながら、一般的には「世の中には階級・職業がさまざまあって、同じ人間でありながらその境遇に差のあること」をいうことの喩えになっていることが多い。
「箱根山 駕籠に乗る人担ぐ人 そのまた草鞋(わらじ)を作る人」というのは、
人情話「白子屋(しろこや)政談」に登場するもので、
大岡越前守忠相による所謂「大岡裁き」を題材にした落語なのだそうです。
そもそもは、すべての人々が、天に与えられた役割をこなしているから社会が成り立っているものだということなのであって、
そこのところを履き違えると、それを解らせるための生まれ変わりを来世という形でさせられるから、ゆめゆめ疎かにしてはならないのです。
人間、思っているほどそんなに偉くはありません。
駕籠に乗ることができる人は、何をする役目かということを思わねば、来世が危うい。
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