作日のをもう少し丁寧に言うと、「信じた通りのものになる」と言う方が、より近い言い方かも知れません。
「信じる」というのは、理性または理屈ではないからです。
まさか、オカルトやなんかまでをやみくも信じる、などということはいまどき普通はあり得ないことですから、そういうのは無いものとしてです。
小さいときに野原や自然の中で遊んで、自衛本能に刻み込まれた智恵は、それらを無意識のうちに判断する能力を培っているものです。
あまりにも過保護に育てられてしまっていて、自分では危険を回避することすらできない、心理学でいうところの痴愚魯鈍に近い(知性のことではなく生活習慣上のことで)反応の人もいるにはいるけれど・・・
先般、物を大切にと言ったのは、物にもタマシイというかエネルギーが内在していると思うからであります。
生命ウンヌンではない神ともいうべきもののことであります。
何を勘違いしてか、わざわざ好んで自らを貧乏たらしくしていれば、ましてや不潔にしていれば、黴菌が寄ってくるのは理の当然ではなかろうか。
こういうのには、「貧の霊」が簡単に乗り移るのだといわれます。
だから美しいものを選んできた文化があるのです。粗末と不潔は根本的に違うのです。
信じるということに根拠など必要ない。なぜなら太古の昔からの歴史を経て、DNAに刻み込まれていることなのだからです。
信じた通りのものになるということの一番解りやすい例は、「ああ、もう駄目だ。」であります。自分がそうだと決めた通りになるから、口が裂けても言ってはならない言葉であります。
思っているわけではなくて軽い気持ちで口にするのであっても、エネルギーとして外に出してしまうからです。
私は、どういうわけか重篤な病に陥った人から突然電話がかかってくることがあります。
なぜかわからないのですが、大して親しくつきあってもいなかった人からでもです。
そのときに励ます言葉が上記の通りなのです。
タバコを1本吸いたいといえばそれを、酒を飲みたいといえばそれを目的にして、自分で頑張って退院せよと言います。「もう駄目だ」は禁句なのです。
ささいな望みであったとしても、心底したいことがある人は、復帰してくるから不思議です。
見舞いで励ましたその後の1週間くらい、私自身はグッタリしてしまいますが・・・
そろそろ自分自身も、望んだとおりのものにならないといけないのですが、自分のことはどうも後回しになるようです。
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