2016年11月16日水曜日

適当なところで修正を図っておけばよかったのに

今、いわゆる老年と呼ばれる人たちの韓国に対する態度というのは、大変失礼な言い方になるかも知れないが「可哀想な国なんだから」ということで、大目に見るというのが大半の人たちの感情だったように思う。

戦後暴れまわった第三国人たちに対しても、「仕方ないね」ということで我慢して見過ごしにしていたキライはあるように思う。
余りに行き過ぎた行動をとるために、一般人とは違って対抗手段をとるヤクザと呼ばれる人たちが身を挺して立ち上がったと記憶している。

反日を掲げるしか政権への求心力を得られないとした韓国が、反日政策を実施せざるを得なかったのだろうが、真実を知っている人たちがまだまだ多かったということもあり、何か騒いでいても大して相手にもしなかったということが実情であろう。

韓国の今の発展があるのは、日本の教育と資金援助や技術提供があってのことだというのは、韓国以外の諸外国が見るときの国際常識であるが、「そんな筈はない。」と感情が先走ってしまって彼らは冷静に判断できなくなってしまっているのではなかろうか。
漢字を捨て、自分で歴史を調べることもできない環境下では、哀れだが、政府の言うことや教科書、マスコミの言うことを信じるしかないのだということか。
事実に基づかない反日的歴史教育をどこかで見直して、修正を図ってこなかったことで、今となっては収拾がつかない状態に陥ってしまったのではないだろうかとも感じる。

世界の各国は、歴史上の軋轢や耐え難く見える経緯が過去にあったとしても、「お蔭」になったことは正当に評価し、感謝し、恨みを忘れて先の友好的発展に努力するが、恨みが先に立ってしまいそれができない国民性ということなのかも知れない。

政治も経済も混沌を究め、異常事態に立ち至っているように見えるが、援助の手を素直に差し伸べることに躊躇してしまうのは、彼らが今まで選択してきたことの結果だと思えてしまう。
特に若い人たちの国民感情を、そこまで悪化させてしまったということである。

隣国にいる日本人は、ある意味お人好しだし、かなり忘れっぽいから、今からでも本気で仲良くしようとする姿勢を見せれば、すぐに「昔のことは水に流して」ということになりそうでもある。
捉われているものが、人を幸せに導かないことだけは確かである。

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