2017年12月13日水曜日

事実を見つめなおさないのはどちらなのか

未来に進むために勇気をもって過去を見つめなおさなければならない、というような内容のことを、偉い作家の先生がこのほど仰ったのだという。
その通りだと思うから、それに反論するつもりはない。
但し、事実についてはということを付け加えてということにならから、巷間いわれてきた捏造まがいのことまで含めてということではない。

戦後まもなく小学校に入学した年齢だから、学校で習うことは、何もかも日本が悪かったという一億総懺悔の時代に育った。
神話も道徳感も、それまで地域に存在していた習慣も、古いものは全て否定された。
戦争に負けたということはそういうことなのであり、命が助かった事だけでも有り難いことであるとして、ずっと世界に謝り続けて行かなくてはならないのだと思わされていた。
国内の復興にもお金がかかり、なかなか豊かにはなれない国であったが、努力して、成人になるころまで、国は賠償金を払い続けていた。(そのころまで賠償使節団の駐在している施設があって、そこでの駐在員は威張っていたのを現に見てもいる。)

ものごとには、どちらか一方だけが全面的に悪いなどということは無いと思いつつも、そんなことを口に出せる時代ではなかった。
外国からよりも、国内で日本人がそれを言わせない勢力の動きというのが強かった。

一所懸命働いて、世界の平和に貢献することで贖罪し、やがては認めてもらえる国になろうと励んでいたのが、周りに居た殆どの人の姿だったように思う。

時代は進み、多くの国々と友好関係を結べるようになってくるにつれ、日本のものが全て悪かったのだとは言い難いものが次々に明らかになってきて、良いものは良いと認識して評価されることが増えてきた。
何をされても、歯を食いしばって努力を重ねてきてくれた先人たちのお陰でもある。

歴史というものは全事象を包括し総合的に判断しなければ解らないことなのであろうが、そこまで要求することはできない。
しかし、明らかに捏造だと判ることによる理不尽な言いがかりにまで、屈服し従うということまで、いつまでも受け入れるわけにはいくまい。
事実に基づく物に対しては真摯に対応しなくてはならないにしても、理不尽なものに対しては、それは違うと言う勇気をもたなくてはならない。

止むを得なかったとはいえ、そういう理不尽さを放置してきたことが、未だに貶められ続け、健全な関係を構築できないでいる原因のように思えてならない。
条約すら反故にして憚らないような動きさえ見せつけられる。
捏造プロパガンダ教育をしているいくつかの国との関係修復がいつまでも残されることになるのは、事実ではないことを基にしているからではないのか。
人であれば乗り越えられように、互いにとって不幸なことである。

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