2017年12月24日日曜日

騒いでいることの本質は何なのだろう

不倫問題だの日馬富士の暴行問題だのと、事情を詳らかには知らない人たちが騒ぎ立てることというのが多い。
連日、時間を費やしてああだこうだ言っている人たちが、後になって言ったことに責任をもつわけではあるまい。
疑惑?があると感じるとき、大声で叫んだ者勝ちというのが多すぎないか?

本筋から外れていても、誰かが尤もらしいことを言い、それに追随する人が出ると、事情がわからなくても、みんながそう言っているからということで、流れができてしまう。
普段から味方が沢山居る人とそうでもない人では、扱いが違ってもこよう。

詳しいわけではないから表面的な見方かも知れないが、貴乃花親方が損害賠償の訴訟まで考えに入れているのだとすれば、これまで口を噤んでいたのは当然だし、協会に報告することで揉み消されてしまうことを危惧したと思えるような内部事情があったのかも知れない。
批判する人たちが、利害関係もなさそうなのに、自分の価値観に合わせ感情的に述べることが公平であるわけがない。
傍目では判らないのに、部外者が正義ぶってものをいうのは控えた方がよいのだと思う。
全体像を捉えてものをいっているわけではあるまい。
多分、自分の感情が先走っての好き嫌いからのことで、真相とは遠いところでものを言っている可能性は十分あり得る。

最近、人が悪くなってきたのか、国家の重大事でもないことをマスコミが騒ぎ立てると、何か隠したいものが他にあるからではないかと勘繰ってしまう。
それどころではない、国民が一致して対処しなければならない難問が山積していると思えてならないからである。

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