2017年12月23日土曜日

苦肉と狗肉

正義だの人道だのと言い立てる人の多くは、自分の価値観から一歩も出ないで他を責めることが多いが、それが度を過ぎることがまた多いようにも感じる。
人類不偏の価値観というものが有るのだとしたら、世界に争いは起こらないのだと思うが、政治にしろ宗教にしろ食料にしろ、そんなものはあるまい。

食料ひとつを取り上げてみても、主張は感情的にまでなってもつれるし、決して自分の主張を譲らない。
例えば、欧米諸国では、韓国が年間200万頭もの犬肉を食べるのが怪しからんといって批難する。羊頭狗肉という熟語が有るくらいだから、中国でもそれを食べるのであろう。
それを饗されたら食べるのか?と訊かれたら、確かにご勘弁願いたいとは思うが、他人がそれを食べるのを非難したり蔑んだりすることはできない。トンスルも同様である。
牛や豚や鳥は食べても良いのだと抗弁できないからでもある。

狩猟で斃すことだけの動物殺戮は眉を顰めることもなく平気でできる人たちが、鯨や海豚は可哀想だとする根拠だって、かなりいかがわしい。
正義というものはあるのかも知れないが、一方的に主張できる絶対的なものでもあるまい。
どこまでを認め合い、どこまでで折り合うかということになろうが、長い歴史の中で文化として定着してしまっているものを否定し排除することが果たしてできるのだろうか?
それによって人間同士がいつまでも争うとしたら、本末転倒だと思う。

犬肉食は兎も角として、今度は加藤清正が苦しんでいる姿の像を作って、日本人観光客の誘致を目論んでいるのだという。
捏造慰安婦問題で騒ぐことには行き詰り、今度は400年以上も前のことを引っ張り出して嫌がらせを継続しようとしての苦肉の策とすら思える。
発想の原点が根本から狂っているとしか思えないが、それが異常だと思えないところに異常性があるのであろう。つける薬はない。

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