2018年4月9日月曜日

韓半島には和地(日本領)が有った?

歴史認識というのは、出土した遺跡や各国に残された古文書或いは歴史書というものを読み解いて、論理的に矛盾がないことで説を建てることでなされる。
それは感情的に納得するかどうかとか、政治的な駆け引きからは区別されるべきであって、当事者にとって都合が良いとか悪いとかの問題ではない。
事実がどうであったかを追求するところから始まる。その結果によってどうこうするということでもない。

魏志の記述によれば、韓半島の南側に和の地があったと書かれているという。
いうなれば、海を挟んで日本の北側に日本の領地があったということであり、中国の認識は日本が海洋国家であったとすることを示している。
それを証明してしまうのは、韓半島南部から発見される多数の前方後円墳である。この古墳形式は日本独自のものであるから、事実は曲げようもない。

広開土王碑文というのもある。
広開土王(好太王)碑とは、高句麗の第19代王の広開土王(好太王)の業績をたたえた石碑です。中国吉林省にあり、子の長寿王が、414年に建てたと碑文にあります。
長らく人目に触れることがありませんでしたが、1880年頃に、清の農民によって発見されました。風化・劣化が激しく、判読不可能な文字もあるものの、当時の人が刻んだ文章であり、第一級の資料として、きわめて貴重だということになっている。

碑文は、三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されています。

それによると、百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年[391]に、海を渡って来て、百済・□□・新羅を破って、臣民としてしまった。
399年]己亥に、百済は、(高句麗との)誓いに背いて倭と和を通じた。
広開土王は、平壌に巡下した。そこで新羅は、使者を遣わして、王に申しあげて、「倭人は、新羅の国境に充ちあふれ、城や池を打ち破り、(百済の)奴客を民としてしまいました。王に帰属しまして、仰せを承りたいと願っております。」と言った。
400年]庚子に、歩騎五万を派遣し、前進させて新羅を救援させた。男居城より新羅城に至るまで、倭は、その中に充ちあふれていた。
官軍が、まさにやって来ると、倭賊は、退却した。
倭は充ちあふれ、倭は潰滅した。
404年]甲辰、倭は、不法にも帯方の界に侵入した。
倭寇は、潰滅し、斬り殺した者は、数えきれなかった。

というようなことが書かれているという。
新羅の国を破り、高句麗の平壌あたりまで攻め上ったとしたら、日本本土からの兵力だけではあるまい。半島南部にあった領土からの兵士も多く加わっていたと考えた方が自然である。

韓国に配慮するからかということかどうか判らないが、半島南部に拠点となる日本の領土が存在していたのだと考えた方が理屈には合う。

考古学に近いようなことは、いろんな仮説をたてて、発掘された遺跡資料などにより隙間をうめていくものであろう。
韓国側の歴史家の中には、日本各地にある韓国由来の土地があることを根拠にして、日本は朝鮮領であったのだとする荒唐無稽な説を立てる者もいるようだが、渡来人が日本のそこに集まっていたからだそういう地名がついていたのだという極めて単純なことさえ理解できず、妄想によって主張するような歴史ではなんともならない。
甚だしきは日本の国歌「君が世」は、韓国姓である「金(キム)」のことを君主として仰いでいたのであるから、日本は韓国領であったなどと唱える学者さえいるというから、学問とさえ言えまい。

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