2020年8月15日土曜日

歴史が語っているもの


歴史学者というのは、事実を明らかにするのが本来の使命であると思う。
取り返しのつかない過去のことを、無理やり現代の善悪や価値判断で論じようとしても無理すぎる。
しかもそれが証拠に基づかないことを取り上げるようなことがあったら、学問としての意味さえ失う。歴史を知らないことには判断ができないことは多々ある。

コロンブスが新大陸を発見したというが、冗談を言ってはいけません。そこは無人島だったのではなく、そこには既に文化を築いた先住民が居たのである。
コロンブスは、カリブの島近くで船が座礁して身動きがとれなくなっていた。それを救助したのがタイノ族であった。彼らはコロンブスたちを手厚く介護し、望むものを何でも親切に与えた命の恩人である。
しかしその地に金が有ることを知ったコロンブスは、本国に帰国すると今度は軍人を連れてやってきて、住民を殺戮し簒奪の限りを尽くした。恩を仇で返す破落戸の所業であった。
しかもこれを神の名の下でやったのである。
侵略と植民地化は、数百年にわたって世界に影響を及ぼした。

数百年もの間、カリブの先住民族であるタイノ族は絶滅したとされてきた。しかし、最近になって歴史家とDNA検査によって、自分たちはタイノ族の生き残りであると主張する多くの人の正しさが改めて確認された。国勢調査ではタイノ族が調査項目から外され、「紙上の大量虐殺」が起こっていたが、彼らの民族としての意識は生き残っていたということになる。

日本は極東の地にある島国で、周りを海に囲まれているから植民地化されないで済んだのだというノー天気なことを言う学者がいるようだが、そんなことに惑わされていたのでは、歴史音痴といわれても仕方がない。歴史事実くらいは知っておいた方が良い。
ポルトガルもスペインも日本を侵略する気満々であった。その先兵として送り込んできたのが宣教師たちであった。国民の意識を中から突き崩し、侵略を容易にしようという魂胆を持っての布教は、彼らが侵略前に行う常套手段であった。
神の僕であると僭称する彼らが日本でやっていたことは、奴隷の確保も兼ねていた。どこに神がいて、どこに博愛精神などといえるものがあったのか?

秀吉はこれを見破り、彼らを追放したばかりでなく、フィリピンに拠点を置く彼らの基地を攻撃するとまで警告したことにより、侵略を目論んだかれらは、手も足も出せなくなったのである。秀吉をボケ老人などとくさすのは悔しまぎれの戯言というほかない。
その実力は、朝鮮征伐での圧倒的軍事力で嫌というほど彼らに見せつけた。

家康もキリシタン禁止令を出した。神の名を借りた侵略者たちの目論見を見破っていたからである。悪法だったかのように喧伝する人がいるが、決してそうとは言えない。
当時の日本は、武士階級という軍人数と、保持していた鉄砲数が全ヨーロッパよりも多いといわれる軍事大国であり、侵略を目論んでも、とても適わないから諦めたのである。
その抑止力があったからこそ鎖国は可能となり、他のアジア諸国と違って200年余の独立を保てた。
抑止力というのはそういうものである。

敵基地攻撃能力を持つというのは、それを行使するのが目的でなければ、それだけで強力な抑止力となる。
「話し合いで・・・」と左巻きの人たちは必死で主張するが、侵略者が話し合いに応ずるわけがなかろう。
現在の日本にそれに対する先見性と勇気があるのかと考えると、甚だこころもとない。
専守防衛というのは、攻撃に対する報復を可能にする軍事力を伴わないことには意味がない。
先日もTVに出てきた外交官出身者が必死で敵基地攻撃ということに反対していた。
曰く、近年のミサイルは移動式であり、固体燃料による発射であるから、それを察知するには膨大な費用が必要になるということに論点をすり替えようと躍起であったが、金の問題ではあるまい。国民の意識を逸らそうとするだけなら、専門家だなどという看板は早々に下した方がよい。
敵基地攻撃能力などというのは、一つの言葉の綾だとすら考えられないのだろうか?
要するに、攻撃されたら確実に反撃するという意思表示をすることが抑止力となるのであって、それが広義での専守防衛なのだと、日本国民は既に理解している。

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