2020年10月1日木曜日

解るまでやる

 

座禅というのは何かを得ようとして組むものではないのだという。

目は外の世界を認識するものであるが、座禅は唯ひたすら組み続けていることで自然に気づきの世界に至るためのものだという。そういう気づきは一定のレベルに達しないと解らないのであるとされるが、真剣に励めば解るときが来るのだという。そういうものを修行と呼ぶのだと思う。

頭で知識として解かったつもりになるのと、手足体を通して浸み込む所謂体得というものは違う。

悟りに至る途中段階なのかも知れない。

日本の文化には修行することで到達できることを重んじるものが多いように思う。

 

息子がザルツブルグに留学していたときに知遇を得たハプスブルグ侯爵家の御曹司が居た。

その彼と食事を伴にする機会があったのだが、テーブルに並んだ料理を前にしたとき両手を合わせて「いただきます」と口にしたのに驚いた。

後で息子に聞いたところ、彼と親しくなりはじめた頃、一緒に食事をしたときに息子が「いただきます」と言ったのに対し「それは何なのか?」と聞かれたので、「人は動物にしろ植物にしろ、他の生物の命を貰うことなしには生きていかれない。貰うことを丁寧に挨拶として表現する言葉が『いただきます』である。意味することは貴方の命を私の体の中に頂きますという感謝であり、頂いた以上はその命を大切にして生かして行きますということでもある。だから食べ物にするものは、決して捨てる部分を残すことなく、全て使い切る。日本人は誰もが『いただきます』と挨拶してから食事を始め、食べ終わったら『ご馳走様でした』と言うのだ。」と答えたのだという。

 

伯爵家出身の御曹司は食事のマナーが幼いころから徹底しているから、作法については一定のレベル以上にあるので瞬時に理解し、爾来、食事のときにはそうするようになったのだという。

 

学問にしてもスポーツにしても芸事にしても、一定のレベルの達しないと「ああ、そういうことだったのか。」とは解らないことが多い。

解かったつもりでいるだけでは、まだ道半ばなのであり、偉そうなことは言えないのだと思う。

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