2021年10月11日月曜日

インド独立軍をまとめた日本人

 

インドの独立に貢献した日本人がいた。

F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の決起を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行ったのである。

この演説は(日本についての歴史的評価がどうであるかを別にして)インド史の一つのトピックである。インド国民軍は最終的に5万人規模となった。

期待以上に大きくなったインド国民軍は、一少佐の手に余るものであり、F機関を発展解消して岩畔豪雄を長とする岩畔機関を作った。

岩畔は中国における工作活動の経験豊かな人物だったが、インド事情には精通していなかった。

日本軍とインド国民軍の間で、またインド国民軍の内部で、トラブルが頻発し、インド国民軍のトップを誰にするかで大問題となった。

彼らをまとめられる人物としてインド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースを呼び寄せることになるが、インド国民軍初期の統率者であったモーハン・シンは任を解かれて怒り、藤原は彼を宥めなければならなかった。

両軍とも大小さまざまなトラブルに悩まされつつ終戦まで一緒にやっていくことになるが、藤原は後年、自分が岩畔の幕僚として残ればもっとインド人たちとうまくやっていけたかもしれないと後悔しているという。

 

戦後GHQ経由でイギリスの出頭命令を受け、1945年11月、インドまで赴く。

そこではインド国民軍に参加したインド人将校たちを反逆罪で裁く裁判が行われており、その証人として呼び出されたのだった。

しかし、インドでは独立を求めてインド人たちの行動が活発化しており、この裁判に抗議する十万人規模のデモが繰り広げられ、軍艦を占拠されたりするような状況で、結局この裁判はうやむやのままに打ち切りとされた。

その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問はとても厳しいものだったという。

幸いにも、有罪とはされなかった。

この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious success(輝かしい成功)と評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。

藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。

1955年10月、陸上自衛隊に入隊した。1956年8月、希望して陸上自衛隊調査学校の校長に就任し、自衛隊情報部門の育成に努める。

その後、第12師団長、第1師団長を歴任した後、1966年1月、依願退職。

藤原はまだ制服を脱ぐ前から東南アジア諸国について個人的に活動を行っていたが、退職して自由になると各地を訪問して現地の要人と関係を深めた。インドネシア情勢について、スカルノ失脚不可避の見通しを外務省より先に政界に伝えたといわれる。

インドネシア独立の英雄でもあるスカルノ大統領は、その在職が長期化するとともに、当初の清廉さを失い汚職にまみれ、盟友だったモハメッド・ハッタ副大統領まで諫言辞任した。

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