2017年2月7日火曜日

秀吉以前にも朝鮮と戦ったことがある

朝鮮は、日本と戦って独立を勝ち得たといっているようだが、そんな歴史事実はあるまい。
朝鮮戦争では、南下する北朝鮮軍に怯えて、戦いもせず部下を捨てて逃げた李承晩の話は、米軍少尉の話でも知られている。
韓米は共に戦った血の同盟だと韓国は自慢するが、米国の言うことは全く違う。気が付いてみたら韓国兵は皆逃げ去ってしまい、戦っていたのは米・中の兵だけであったという。だから、米国は韓国のことを信用していない。
では、同じ民族である北朝鮮がどうだったのかというと、米軍が参戦した途端に逃げ帰った金日成が、中国の将軍に怒られ「おまえはハンコだけ押していろ。」といわれたという話も、中国経由で聞く。偉そうなことを言うが、相手が強いとなるとすぐ逃げるのだと言われている。
何と言ってごまかそうが、日本軍がいなくなったから、竹島を占領できた。戦争もしないで戦利品ってあるのか?

朝鮮(実際には唐の軍だったらしいが)と戦ったのは、秀吉だと思っていたが、それ以前にもあったのだという。

永楽17年(1419年)6月、李氏朝鮮の太宗は、日本側の主力が不在である隙を狙って対馬侵攻を謀り、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
日本側の留守を預かる武士の数は600人程度であり、常識的に見れば、朝鮮軍の圧勝のはずであった。
朝鮮軍は、20日昼頃に対馬の尾崎浦附近へ上陸した。一帯の一般船舶129隻を焼き払い、20隻を奪い、民家1939戸を焼き、114人の島民を殺害したとされる。
しかし26日頃には、対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受けて尾崎浦まで退却。戦局は膠着状態に陥った。

それにも拘わらず何をトチくるってか、朝鮮側は29日に対馬の宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送ったが、にべもなく宗氏にはねつけられた。
損害が甚大となった李氏朝鮮側は、対馬側の和平提案を受け入れ、73日に全面撤退した。

李氏朝鮮側の被害は日本の資料では、朝鮮側の死傷者2500以上。
朝鮮側の資料である『世宗実録』では、626日の襲撃で死者百数十人、710日の記録では180人とされているというが、これでは626日及び710日の損失を合計しても総数の2%程度であり、これ位の損害で和平を受け入れるとは考えにくい。
敗戦と自ら明記し、将官も戦死していることから推測して、実際の被害は相当数にのぼると思われる。
85日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が100余名とされている、
朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事からも窺えるように、朝鮮軍が尋常ではない負け方をしたことが推測される。


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