2017年2月9日木曜日

額に汗することを蔑むような文化では

韓国が、「日本に文化を教えてやったのだ」というから、何のことかと思ったら、朝鮮通信使が行って、日本にいろいろ教えたのだと信じ込んでいるらしい。
ばか言っちゃあいけません。それが来た頃は、日本の方が桁違いに文化は進んでいた。それにとどまらず、日々工夫を重ね、さらなる発展をさせていく民度が培われていた。
事実、明治時代に近代国家として脱皮できたのは、アジアでは日本だけであったということからもそれと知れる。
日本だって遣隋使や遣唐使を中国に派遣したが、使節というのは、教えに行くのではなく教わりに行くもの。そして、教わったものは改善してより発展させたのが日本である。

朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりであるとされる。
しばらく途絶えていたが、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。その後の文禄慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断され、江戸時代に再開された。

江戸幕府は、朝鮮通信使の来日については琉球施設と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。
通信使来日の目的は、日本が朝鮮を攻める気配があるかどうかを探ることだったという。
貢物として持参したのは、毛皮や朝鮮人参などであったらしいが、要するに一次産品。
使節が往来する際の宿泊地での振る舞いは、日本側から顰蹙をかうようなことが多かったのだという。
往来の最中に目にしたり聞いたりした日本の優れた文化・文物にも、差を感じていた。
例えば、朝鮮は物々交換だから、旅をするとき重い荷物を持って移動するが、日本は貨幣経済が発達しているので、どこに行くのにも身軽である。
水田の感慨に、水車で川から水を汲み上げていて便利だ。

自国に返ってそれらの報告はしたらしいが、それらはついに取り入れられることなく、後進性を保ったまま、併合時まで至った。水車などは、木を曲げる技術すら工夫できなかった。
根拠のない気位ばかりが高く、額に汗して働くことを蔑んだ文化では、工夫する喜びなぞ生まれないということか。

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