2017年9月10日日曜日

優れた擬音語の種類が多い

日本語にはそういう分類の仕方はないように思うが、フランス語では、それを「オノマトペ」というらしい。
風が「そよそよ」吹くとか、月明かりが「こうこう」とあたりを照らすとか、「ぎりぎり」まで我慢するとかのように使われる擬音語・擬態語のことを指す。
多くは二つ重ねた言葉であることが多い。
これらのオノマトペと呼ばれる語は、フランス語で600種類、英語で1000種類あると言われるが、日本語には5000種類以上あるといわれ圧倒的に多い。
それらのオノマトペ?を使うと、長ったらしい説明を連ねなくても、その場の情景やその場の心情が的確に伝わる。
日本語におけるそれらの語は、検証してみると意味を備えていたり法則性を持っていることがわかるのだという。

日本人は、上っ面に現れるものより、心の内面に伝わってくる芯のところにあるものを感じ取る感受性に優れていたのだと思う。

見てくればかりを重要視して、本質を汲み取れなかった国というのはある。
身体髪膚これを父母に受く 敢えて毀傷せざるは孝の始めなり
孝教にあるあまりにも有名な下りである。
儒教国を自慢しているなら、親からもらった顔を整形手術して変えるなどということは論外ということになる。
整形手術したもの同士の親から生まれる子は、当然親とは似ても似つかぬ顔になるから、その子も躊躇わず整形手術することになる。生物の真理である遺伝ということを無視して平気なのだろうか?
長く続いた属国としての歴史の中で、美女は宗主国に貢女(こうじょ=みつぎもの)として差し出さねばならなかったから、美女は残らない。
子孫の美醜はその影響もあるからやむをえない仕儀かも知れぬが、人間は顔ではあるまい。
内面が育てば、その顔だって風格のある立派な風貌を持つに至るというのも真理。

日本人は基本的に美容整形を好まない民族である、というのが海外での評価であるという。
美というものは、内に備わるものだと多くの日本人が考えているからだとの理解で一致しているという。

人間は、内面を育ててナンボということである。人倫・道徳はそうしてこそ育つ。
語彙の多さというのは、そういうところにも貢献しているのだと思う。

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