2017年9月28日木曜日

公正な報道はされるのだろうか?

教育というのには、知育・体育・徳育というのがある。
その中でも徳育というのが最も大事なことなのではないのかと思う。
何故なら、教育の大義は、個人の素養を高めることもさることながら、地域社会・国・世界、もっと広くは人類の為に役立つことを目的とする筈だからである。

人間には、小さい自分と大きい自分という捉え方がある。
小さな自分の権利主張ばかりを唱えていたら、社会というものは構成できない。
多様性ということは尊重されて然るべしとは思うが、時と場所と場合というものは自ずから有るのであり、ルールを守らなくても良いということにはならない。
自分は大事だと言うのは勿論だが、自己犠牲というのも人間の持つ崇高な考え方だと思うのである。
公立学校の先生が、公式行事での国歌斉唱を拒むというのも、それに反する行動の顕れにあたるのだと感じてしまう。
個人の信念信条は持って自由だろうけれど、教育の場でそれを持ち出したのでは、生徒にルールを教える資質さえ疑わせてしまう。
徳というのは、ルールを越えたところにある人倫という根幹のところから出てくるものなのである。人であることは、自分だけのことではなく、自我を抑制するところから始まる。
徳目ということが教育現場からなくなってしまったのは何故なのだろう?

徳目ということから敢えて目を逸らせるような動きというのも残念ながらあったように思う。
徳目の最たるものは正直ということ。
嘘を言っても平気だという考え方は、日本にはなかった。
ましてや自分だけのことならまだしも、自分の持って行きたい方向に真実を捏造してまで組織的にそれを広め、大衆を惑わしても恬として恥じないなどということになるに及んでは、行く末が思いやられる。

解散総選挙がある。
国政ということになれば、軍事・外交・経済に重要な判断が求められる。
以前、変な報道に乗って、流行り病に浮かされたように政権交代に至った時代があった。
政権担当能力がなかったことによる結果は惨憺たるものであり、多くの国民が選挙結果を後悔した。その轍を踏むようなことは避けたいと思っている。
選挙は、人気投票ではないのだと思っているからである。

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