2017年9月18日月曜日

感受性ということを意識しないと

日本国には開闢以来2600年余にわたって培われてきた共通認識というのがある。
道徳観であったり倫理観であったり文化というものに対するものであったり多岐にわたる。
畏れ畏まるものというのは、感性の中にまで染み付いていて、それらを敬い大切にする。
例えば、天皇陛下というのも、理屈ではないのだと思う。

和ということも人様に迷惑をかけないように自らを律するということも、規範の根底にあって行動する。荒い言葉は極力使わないし、他を敬い自分が遜って相手を立てる謙譲の美徳というのも意識することもなく日常の中にある。

最近、自分の考え方を主張するのあまり、他を省みないで、権利だと言って自説を押し付けようとする人が増えた。
困ったことに、自分が正義の代弁者だと勘違いしている政治家というのもいる。
唯物史観とでもいうのだろうか、古来からの物に否定的である。

日本国民の感性というものを蔑ろにするというのでは、誰もその意見に賛同しない。
人間としての感受性が乏しい人に信頼を寄せることはあるまい。人間として信じ切れないと芯のところで感じているように見える。
感受性が豊かであることで、皆の幸せを考えることができるのだと思っている。

偏った考えから過激な発言をして得意顔をしてみても、浮き上がるばかりで、いつまでたっても
大勢がその方向には動かない。
民心からは遠く離れているということに気づけるのも感受性の内なのだから、それすらもないとしたら議員たりえないということになる。

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