2017年9月16日土曜日

儒教が実学としては発展しなかったのか?

他人に対して説得力のある意見を説くには、なにより合理的で論理的な弁論の技が必要となることは否定しない。
そのためには論理を組み立てる論理学が有効である。
しかし、論理学にこだわりすぎると、それはしばしば本質を欠いた、論争のための理屈=詭弁に陥ってしまうという側面も持つ。それが論理学ともいえない詭弁を連ねるというのでは、殆ど意味を持たない。

中国に「白馬学派」と後に呼ばれるものがあった。「白馬は馬にあらず。」というのを大真面目に論ずるのである。
いわく『白馬のとは色の概念であり、とは動物の概念だ。つまりその二つの概念が合わさった白馬は馬ではない』というのが『白馬非馬説』。
明らかに、これは詭弁と呼ばれる類の理屈であり、ものの役に立つ考えとは程遠い。

朝鮮の朱子学は16世紀ごろから形而上学的な論議にふけり、また17世紀になると政治的な派閥争い(党争)と結びついた。
朝鮮が夷荻と蔑んでいた満州族が中国を支配するようになると、朝鮮こそが中華であるとする現実離れした小中華思想が出現した。
現実を直視できない身の程知らずの奢った判断と言わざるを得ないが、それを不思議ともしなかった。これらの弊害に対する批判として実学が登場した。
実学者のうち、南人派の李瀷とその門下による、社会制度の考察と改革をはかる学者を「経世致用学派」と呼ぶ。
これに対して老論派が現れた。生産力の発展のために清や西洋に学ぶべきとする一派を「利用厚生学派」または「北学派」と呼ぶ。
実学は英祖から正祖の時代に盛んになったが、その後は弾圧された。
いずれの学派も政争の為にしか学問を使わなかった。
朝鮮の実学はほとんど後世に影響を及ぼさなかった。清を夷狄として退けるのでなく、積極的に清に学ぼうとする北学論は一般化したが、清への依存のみが強調されることになったし、西洋科学は禁止された。
いずれにしても支配するか支配されるかの形でしか、収まりのつかない民度が形成されてしまった国であり、対等という概念は育たなかった。それは今に至るも続いているように見える。
寝そびれたときにTVをつけると韓国ドラマをやっていることが多いのでよく見る。
結果的には、理性が働かないその会話のやり取りの異様さに腹が立って、余計寝られなくなることがしばしばである。儒教が誤った使い方をされてきたということなのだろうか?
毎度のことなのだが、何かの問題が起こったとき、その原因を明確にして解決を図ることよりも、自分の都合を最優先して屁理屈を並べ立て、大声を出して言い争い、相手を屈服させることに最大の力を注ぐ。証拠の捏造さえ平気でするし、拷問により無理やり自白させることなぞのシーンはこれでもかというほど出てくる。
身分的に上下関係でもあろうものなら論理性の無視どころか、極めて理不尽な要求を押し付けて平気である。恥とも思わない。
時代劇ドラマでも現代劇ドラマでもそれは共通していて、そういう場面が出てくることは枚挙に暇がない。民度の違いというほかないのかも知れないが、理解し難い。
韓流文化だと大自慢して諸外国に輸出しているが、考え方の異様さも一緒に輸出しているのであり、その異様さにも気づいていないとしたら、後々諸外国から軽んじられることだってありそうに思える。
屁理屈と論点ずらしで兎に角相手を言い負かせば勝ちというのでは、真の発展には結びつかないのだと思うのだが・・・。
ただ、家族間(但し下層階級の)が仲良く助け合うところのみが救いと感じさせるから、その良いところだとしてドラマを見ている。

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