2017年10月21日土曜日

日本語にしかない言葉

紅葉の美しい季節を迎える。
日本の四季折々の風景は息をのむほどであり、迫ってくる筆舌に尽くしがたい感覚は、時に切ない程のものにまでなる。青春・朱夏・白秋・玄冬の全てにそれらは有る。

言葉に表現しきれないことを敢えて表現しないで「もののあわれ」だとか「わびさび」として感覚的に捉え、それを相互に理解しあえるというのが日本人の感性なのだと思う。
「切ない」とか「もののあわれ」だとか「わびさび」というのを表す言葉は、多言語には無いと言われる。
それを説明するには膨大な言葉数が必要となるであろうが、そんなことをしなくても伝わり合えばそれで良いのだと思う。感じ方に差が有ったとしても何ら問題とはされないし、清国に気にすることでもない。

豊かな実りに恵まれることと一緒に、日本は古来自然災害の猛威にも曝されてきた。
そういう自然現象をあるがままに受け入れ、森羅万象すべてに大いなる意思を感じ取ってか、先人たちは生かされてあることに感謝して、周りにあることを神として敬いもし、「おかげさまで」という言葉ができたのもそれであろう。

食事の作法というのがある。
主客があっての場合は、主人側が「召し上がれ」と声をかけ「頂きます」と客側が挨拶して始まる。南信では「お丈夫におあがりてや」と主側が言い「お辞儀なしに頂戴します」と客側がいう。
一人で食事をするときでも「いただきます」と言って手を合わせてから始まるのが普通である。

留学中であった息子が、習慣通りに「いただきます」と言って食事を始めたところ、同席していたハプスブルグ家の後裔である旧侯爵家の御曹司が「それは何のことか?」と尋ねたので、人間は心ならずも植物や動物の命を食事として摂らねば生きられない。だから「あなたの命を私の命としていただきます」という感謝とお礼の挨拶でもあり、食材料を生産してくれた人や食事を作ってくれた人への感謝の気持ちを込めて「いただきます」と食前に挨拶するのが、日本人の習慣なのだと説明したところ、いたく感じ入って、彼はそれ以来食事の度に日本語で「いただきます」と言うようになったのだという。その時は必ず嬉しそうな顔をして息子の方を見たのだとか。

「もったいない」という言葉も、多言語に訳せる適当な単語がないのだという。
物を大切に扱って長く使えるようにこころがけたり、無駄使いしたりしないで、修理したり再利用したりして最後まで使い切ることを表す言葉であるが、これも感謝から出てくる言葉であると思う。
日本語には、多言語に翻訳できない言葉というのが、他にも沢山あるのだという。

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