2017年10月6日金曜日

長続きしないのではできない

ある経営者と話をしていたところ、最近の若者は仕事に就くと、最初から重要な部門の役割を担えないと不満に思い、それを理由に辞めてしまうのだという。
仕事に関する基礎的な知識や技能は、ある程度の経験を積まないと身にはつかないが、そういうことには意識が向かないし、それを理解して努力しようと考える堪え性というのが乏しいのだとか・・・
些細な注意であっても、それを怒られたと受け取り、すぐに顔色に出すし不貞腐れて、素直に自分の為に生かそうとしないから、指導する側が余計な気遣いをしなければならないことが多々あるらしい。
全ての若者がそうだとは思わないが、幼さから抜け出せないままの人が多いのだと感じる。

日本が長いデフレから抜け出せず、多額の財政赤字があると言われながら、曲がりなりにもいまだにGDPが世界の上位にあるのは、鉱工業製品の競争力があるということもさることながら、特許の数が多いということや、産業界に満遍なく培われ蓄積された職人技が与って大きいのだと思う。
そういうものは一朝一夕にできることではなく、地道な努力があってのことだと思う。
額に汗して働くことや、汚れ仕事も率先してこなしてこそ為し得られたことであり、日本では働くことを賤しいことだとしなかった考え方というのが根底にあるからだと思う。

どのような仕事に就くときでも最初は清掃から始まり、次が下働きであり、本業に関連する仕事というのが許されるのはそれからであった。
確かに、最初から教えた方が一通りのことをこなせるようになるのには手っ取り早い。
しかし、それでは教えられたことができるようになるという域にとどまるのであって、その先の発展向上はない。
下働きの間に自分のこととして身につけなければならないのが何なのかということを悟り、周りに居る多くの人たちと協力関係を結べるための信頼を得なくては、立派な仕事はなしえないものだと気づくための修行であったに違いない。
自分でも工夫したり画期的なことができるようになる本当の実力が身に付くのは、そういう過程を経ているかどうかというのも関係する。
いうなれば、経験則に基づく先人たちの教育方法だったのだと思う。
それが良いかどうかは判らないが、知識だけでは世の役に立つ形には結びつかないこともまた確かなことだと思う。
我慢ということを軽く見ることはできない。

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