2018年8月18日土曜日

謙譲の美徳は失われていくのだろうか

本来あったそもそもの意味を理解することもできず、うわっつらの言葉だけでとらえられた結果、使い難く、というより使えなくなってしまった言葉というのが数々ある。
言葉狩りででもあるかのように、単に普通名詞であったものが差別用語だと決めつけられて、漢字変換できなくなってしまっているものは枚挙にいとまがない。
言葉という文化を失うことで無くしてしまう心理描写や、その言葉に含まれる深い意味を理解できないことからくる狭小さは、一事が万事となるから、いずれ取り返すことができない事態を招くに違いない。
そういう意味でいえば、言語に携わる学者や、それを教える教育者の責任は大きい。

例えば「つまらない物」という表現がある。
手土産などを持参した時に使われる挨拶として通用してきた。
これを文字通りにしかとらえることができず「つまらない物なぞ持って行くのは失礼だ」と、マナーの先生だと僭称する人たちが大真面目で主張し、いつの間にかそれが定着してしまった。
素養の無さを指摘する人が少なかったせいなのか、諾々として常識化した。

日本人には謙譲の美徳というのがある。自分をひけらかすのではなく、自らがへりくだることで相手をたてたり尊敬の気持ちを表す奥床しさというのは、教養人の嗜みであった。
「自分なりに誠意を込めた品物を選びましたが、立派な貴女様の前ではつまらないものに見えてしまうかも知れません。」という謙遜の気持ちから出る挨拶言葉であるこれのどこが失礼だというのであろうか?
日本人が、古来から培ってきた美徳を壊そうとしている勢力があるのだろうか?


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