2018年8月25日土曜日

まだ個人責任の段階なのでは?

Mという学者さんが、イレズミを認めないのは「国際的な恥だとの持論をのべているのだという。
曰く、偏見・差別なのだと。
何をもって偏見だとか差別だとしているのかが解らない。偏見・差別というのは、自分では如何とも為しがたいことをもって区別されることではないのか?
身体的特徴であったり、肌の色であったり、親の職業や出生地であったりと様々であるが、それらは自分では責任のとりようがないし変えることもできない。
日本では、親からもらった体に敢えて傷をつけないということは、恥どころか「美徳」である。
外国の風習を全て受け入れることが進歩的であるとは言えまい。
自分の好みや主張があるのは当然であるが、意見としてそれを述べ他をも同調させようというのであれば、少しは説得力のある説を呈した方がよい。

外国人旅行者で、イレズミのある人が日本で温泉に入れないといったところで、それは日本のルールなのであるから守ってもらうしかない。そんなことくらいは出発前に知っているはずである。
日本の家屋で部屋に上る時には、玄関で履物を脱ぐ。M先生は、それも土足であがれるようにしないと恥だというのであろうか?文化を否定するという論なのかと疑う。
When in Rome do as the Romans do.
どこに行っても、その国の文化を尊重して、その地のルールを守るということを否定することはできない。

イレズミは個人の自由化もしれないから、それを否定するつもりはないが、それをしたことで起こる不自由を自らが選択したということであるから、それが怪しからんといって正当化しようというのには無理がある。
歴史的に見て、それを入れた人たちは反社会的な行動をとることが多かったことは事実だし、それをちらつかせることで威嚇の手段としてきたから、一般人には許容し難い感情があるのは致し方あるまい。
社会から受け入れられるような正当化の理由付けができるとは思えないから、なかなか大っぴらに認められることにはなるまいと感じる。

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私が書いた小説 
ある日突然、頭に「これを書け」という声が響いて書き始めた小説「夏風越の(なつかざこしの)」は、書き始めてから年月がかかった。
どう書き進めるのかは、降りてくるお告げに従ってのことであるから、一気に何ページにも及ぶこともあれば、何か月にもわたって一文字も書かないということもありました。
幕末から現代に生まれ変わって、超常現象を介して話しが進むということなのですが、何かが時々降りてきて言われる通りに少しずつ書き進め、2018年7月2日、第12部まで書き終えました。一応の区切りとしたい。

童話 「トイレの神様」・「鬼切丸」・「昔ばなし」・「麦の命」・「猿酒を飲んだ天狗」・「狐のお嫁さん」・「花を摘んでいた少女」ほか、幼児に読み聞かせるのに良さそうなお話を書いています。
http://www.kng2321-cbs.com/douwa.html

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