2018年8月5日日曜日

世の為人の為なのかどうか

虎穴に入らずんば虎児を得ず、という故事がある。
特ダネを抜くためには、そういうこともあるのかも知れないが、何のためにそれを追い求めるかということに、正義の志というのはあるのだろうか。
フェイクや事実確認がなされていないものであったとしたら、害ともなり得る。

《「論語」八佾 (はちいつ) からくるところの木鐸、すなわち世の人を教え導く人・社会の指導者たらんとする気概をもって、志高く正論を主張するというのならわからなくもないが、自らの偏った思想に拘るのあまり、何でもかんでもその主張に結び付けようとする論理を組み立てる人というのが少なからずいるのではなかろうか。

友人の一人がジャーナリストのことを「蛇穴栗鼠兎」と表現したが、蛇穴栗鼠徒」と言った方がよさそうな人も居そうである。
言うだけ言って自分の言に責任を持たない。
政権の監視が役割だと僭称するむきもあるようだが、世の為人の為という信念や観点からずれて、自分の思惑通りに世論を誘導しようとする無理が垣間見える。

地上の楽園だと煽って情報不足だった人たちの人生を誤らせた可能性を持つ人たちが、その後に実情を知って反省したということを聞いたことがない。

民主主義国であったなら結果は違ったのかも知れないが、一党独裁の共産主義国である中国に資本と技術をつぎこみ、結果として国内の労働需要を損ない、あまつさえ長期にわたるデフレを招いたのも、それを先導した人たちがいたことによるのは、一つの現実であろう。
経済発展したことが友好的平和に結びついたのであればよいのだが、大して感謝されもせず、現実は、中国が軍事力を増強することになっているのを目の当たりにし、防衛上日本も対応を迫られるようになってしまった。
経済発展すれば民主化に向かうから危惧するには及ばない、と言ったのも彼等である。

全てに反対し、政局がらみにしようとする目的は何なのだろう?本当に国民の為を思ってのことかどうか疑わしいことが多すぎる。

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