たいして信心深いわけではないけれど、そうかといって粗末にするなんてことも決してなくて、神社であれ仏閣であれ教会であれ、社、祠、石像に会えば、恐れ畏まって拍手をうったり手をあわせたり礼拝したり恭しく頭をたれたりするのが常です。
手水の作法は、村の鎮守、麻積神社の氏子総代にそのむかし教わりました。自然に躾られていたたといえます。
寺院などでは仏像なども拝観するけれど、名前が書いてないと、それがなに如来なんだか何菩薩なんだかわからない。仏師はどのように彫りわけ内面まで浮かび上がらせたのだろうか。
仏像の形は経典で決められていて、そのフォーマットともいうべきものを「儀軌(ぎき)」というのだそうです。
この儀軌に則って仏像の大枠がつくられ、表情・印相・持ち物・衣などによって仏の個性は表現され、時代を超えて共通項をもつのだといいます。
これらのことは作る側にも見る側にも共通の認識というか素養があったのだと思われるが、私にないのは残念なことです。
同じく西洋では、ゼウスだアポロだガイアだダビデだと像を見ただけで、わかる人にはわかるのだってことだと思います。
神話なり民話なりが語りつがれて内面に残り、精神面を支えているのに違いない。
音の世界でもそれはあって、たとえば鐘のネを表す音があって、「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る」なんていうのもそれで組み立てられていると、昨年末初めて目の前で弾いて聞かされました。
言葉は、乱すことなく使うことが大切なのは、共通認識の根幹をなすものとしてのことだと思うけれど、ほかの表現方法もたくさんあるのかも・・・
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