2016年8月29日月曜日

あえて合致させなくても良さそうに思える歴史認識

歴史認識ということをよくいう人がいる。
8月になると、特に多い。

資料というものがいかに沢山残っていようとも、歴史としての結果に至る過程で、どのような判断がなされたかは複雑にからみあったことや偶発的なこともあっただろうから、どう認識するのが正解ということにはなりにくい。
国と国との関係ということになれば、さらにその解釈や認識が違っても不思議はない。
それが合致するならば、戦争など起こすことなく話し合いで済んだ。

建国時に反日を唱えて成立した国は、政権の正統性を揺るがしかねないから、国体でも変わらない限り、永劫に認識が合致することなどなさそうにも思える。

認識というのは、誰にとって都合が良いかということにも重なる。
ヤルタ会談などという米英ソで戦後の分け前を勝手に決めたことだって、自由主義国と共産国の異様な談合であったし、米英ソが互いに権益を求めて侵略を狙った中国が、狙われていたにも拘らず有色人種で唯一、白人国と組んで戦ったというのも異様である。
戦争となれば何でもありということである。
戦後の枠組みを否定することはできないにしても、それがすべて正しかったのだとするかどうかには、議論があってもよかろう。
蒸し返して覆そうというのでなければ、非常理は非常理なことであったとして受け入れるのも歴史である。

歴史というのは、もはや取り戻すことができないのだから、学問的に事実関係を冷静に研究して、将来に役立つようにするものなのだと考えるのだが、厄介なのが、ここにイデオロギー問題を持ち込み、どこの国の人か判らないような解釈の主張をして、権力闘争の具にする人たちがいることである。人類の将来のためにというのではなさそうである。
全てが良かったことも全てが悪かったことも歴史にはあるまい。

歴史認識の摺り合わせというのは、双方が理性的かつ冷静でなくては叶わぬ。
100年や200年でそれができるとも思えない。理想を現実化するのには、先が長い。

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