2016年8月6日土曜日

靖国神社参拝に賛否があるのは解らないでもないが

身内に戦死者はいないが、九段の近くに行くことがあれば、神社に立ち寄って戦没者の慰霊のために柏手を打つようにしている。

親鸞の「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」
宗旨が違っても、これを否定する日本人はまずいないと思う。日本人は、昔からたとえどんな悪人であっても「死ねば仏」として葬り、後生を願った。
墓を暴いてまで恨みを晴らすなどということはしない。

日本人の死者への弔い方というのは、神道形式にしても仏式にしても作法やしきたりというのはあるが、手を合わせて、その人の良かったことを思い出してやり、恨みつらみをいつまでも引きずるようなことはない。

しかし、必ず弔う。
恨みを残して死んだ人であれば尚更のこと、時には神として祀ることすらある。それが日本人なのであり、長く伝わってきた文化でもある。
平安時代の昔から、怨霊の祟りというのは信じられていて、それは今だって日本人の心のどこかに残っていても不思議はない。
怨霊封じのために神として祀られた神社の御利益は、幅広く信じられていて、「そんな馬鹿な」と言ってみたところではじまらない。

終戦記念日が近づき、またぞろ靖国参拝が騒がれることであろうが、三木総理の時代までは、総理大臣が参拝しても騒がれることはなかったように思う。
A新聞が取り上げて騒いだことから、それが外交カードとなり得るとして、中韓が使うようになったのだと思っている。
まさか参拝することで戦争を美化したり、歴史を否定しようとしていると本気で思ってでもいるのだろうか?
歴史にifはないとしても、座して死を待つか、植民地として組み込まれるかという流れの中にあったことも、完全には否定しきれない時代であったと思う。

いろんな考え方があっても不思議はないし、もっともらしい理屈もわからないではないが、そこに参拝する人は悪人だと教える日本人の先生がいるというのは偏っているとしか思えない。
基本的に日本人は「死ねば仏」と考えるのが普通であるのだから、諸外国にもそういう文化なのだと日本人であるなら皆が説明するということにできないものなのだろうか。日本人が先に立って反対するのではたまらない。
日本では、浮かばれない霊というのは恐れの対象でもある。

不戦の誓いを立て、世界の平和に貢献してきたのは事実であり、それが覆ることはないのだと信じて貰うためにも、八百万の神を祀る文化が理解されることを願わずにはいられない。


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