2016年8月31日水曜日

他人を追い詰めることがあるかも知れないのに

不思議に思うのだけれど、何かの重大事件が起こると、自分の知りえた事実が報道の範囲内のことであっても、訳知り顔に「こうあるべきだ」とコメントする人が大勢でてくる。
自分のことを棚に上げてということは全くないのだろうか?
残虐犯罪や破廉恥な犯罪を肯定する気持ちはさらさらないが、よってたかってのリンチにも等しいやりようには、どうしても違和感を覚えてしまうのです。
他人に要求できるほど自分が完全無欠ではないということもあるが、個々の意見はさておき、第一義的には法の裁きに従うべきなのだと思うのです。

死刑反対論者ではないから、個人的にはそれが適用されても良いと考えるような犯罪であっても、実際の裁判では死刑の判決が下されるような犯罪でもないものでも、家族もろとも追い詰める人たちというのは、家族は自決せよと迫ってでもいるのだろうか?
生きる道すら残さないようなことをするということは、そうなる。
法定刑というのは、納得がいかない事案であっても、人間が作り上げてきた知恵なのかも知れない。

納得がいかないといえば、犯人が外国人であったと判明すると、途端に報道のトーンが下がる例も多いように感じられる。実名報道もされることがないように思う。
国民の知る権利というのは、報道の自由と一致していないとしたら、恐ろしいことでもある。
冷静、公平であることは難しい。

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