2017年1月6日金曜日

約束も守れなくて礼節とは

衣食足りて礼節を知るとよく言われる。
それはそうでしょう。
生きるための食べ物がなければ、奪い合いが始まっても不思議はない。
しかし、畜生にだって一定のルールがあり、ほしいままに貪るということがないのが自然界の見えざる掟なのではないだろうか。

人間の社会生活の習慣として、個々が身を守りつつ、共同生活体である社会を守っていくのには、自然発生的に礼という知恵が生まれた。
それが道徳であり、人倫であり、発展して守らねばナラナイルールとして法ができた。
その道徳が、形として現れたのが「礼儀作法」ということになる。

社会生活を円滑にするために、相手を尊敬し、自分を謙遜し、行いを丁寧にすることが「礼」であるということができよう。
この「礼」を、時と場所或いは場合に応じて、自分の行動が調和できるように、わきまえる事が「節」。「礼節」を知って初めて人間といえる。

この前提としてあるのが、互いの信頼関係。その信頼はルールや約束をお互いが守るということに共通認識がなくては叶わない。
息を吐くように嘘をつき、何度約束を交わしても簡単に反故にして恥じない国が礼節の国だとは、言うも烏滸がましい。根本が間違っている。
人というのは、約束を守る生き物ともいえるのだからである。

かつての日本人は、誇り高かった。私事の前に公ということを考えた。
だからこそ、日本人を誰も支配することができなかったのである。即ち、日本人を誰も植民地支配したり奴隷にすることはできなかった。
そうすることが国を亡ぼす結果を招くことがあるとしても、投げ出したり逃げ出したりせずに、敵わぬまでも、誇りを貫くためにまず戦うことを選んだ。
元寇・日清・日露・太平洋戦争、いずれもそうであった。

 日本は、滅亡することはなかったが、戦争に負けた。
戦争に負けた結果、自分達で自分の国を護ることさえ許されなくなった。
それは日本人の誇りを失わせたのではなかろうか。
護ると言うのは、何から何を護るのか。それが、国家の本質をなす。

元に戻って、礼節とは、人としての恥を知ることである。
恥を知るとは、誇りを持つことである。
では、なぜ誇りを持たなければならないのか。
誇りによって護られるのは、自己存在の尊厳だからである。人として依って立つ根源だからである。誇りを守ることができなければ、それは人間の皮を被った人モドキ、極言すれば人でなしになるからである。

 自分の身は自分で護る。自分の家族は自分が護る。自分の生活は自分で護る。自分の仲間は、自分たちで護る。自分の国は自分で護る。それが国としてのありようであろう。
これをあなた任せにして恥じないとしたら、誰からも信頼されることはあるまい。

自らが護るべき事がわからない、或いは無い者は、無作法であり無礼であることに気づきもしない。即ち、無礼者ということになる。
外面の体裁をいかに整えようとも、心が籠もらずに慇懃無礼になるので軽んぜられる。

耳障りの良い愛だの、自由だのと口にしても、内実が伴わなければ、意味をなさないのだと思う

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