2017年4月17日月曜日

修行しないと人になれない人

「猫を被る」という言葉があります。
知っていながら知らない振りをする。
そこから転じて、本性を隠して大人しそうに振る舞う。
そもそもの語源は、藁(わら)で編んだ「ねこだ(筵のこと)」を被ることで知っているのに知らない振りをする意味で使われ、後に「猫」の字を当てたといわれる。
いずれにしても、本性を隠しているとの悪い意味で使われることが多い。

しかし、一枚二枚は猫の皮を被った方が、世の中うまくいくように思える。
本性剥き出しでギラギラしたやりとりをしたら、殺伐としたものになる。
少なくとも、人間の皮を被った獣より猫を被っているほうがず~っと良い。
ただ、被った以上はそれを脱がないようにしていてもらいたい。
本性を誤魔化すためではなく、人倫として必要な衣を纏うのだと考えれば、その皮は教養として必要なことも多々あるのではないだろうか?
被っている猫の皮を全部脱がなければ、人として理性的でいることはできるだろうと思う。
徳育を育むことは大切だし、形から入ってより人間らしくなることだって可能に思える。
精神上の話をすると、すぐに右翼だとか、更にそれを強く主張すれば極右だということにされてしまうが、果たしてそれでいいのか?
教育問題ということになると、出てきて声高に論じる人たちがいる。強制するなというが、最低限の道徳を守れるようにするのは必要に思える。
声高の彼らは、リベラルを標榜していても左翼か極左だとしか思えない時すらある。左翼の言動が咎められることは滅多にないように感じもする。中道は、今では右翼だと言われる。

権利主張を教える前に、人として守らねばならないことは何なのかということに、そろそろ真剣に向き合うべきなのではなかろうか。
千葉に、人とは思えない所業をして逮捕されたというニュースを聞いて思ったことです。
修行しないと人になれない人というのが居るのかも知れません。

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