2017年4月5日水曜日

生存できなくては幸福は追求できない

憲法を論ずるということになると、真っ先に出てくるのが3大原則である。
平和主義というのもその一つということになるが、何をもって平和とするか?ということになると、なかなか難しくなるが、それを含め、
個々人の力は、国と比べれば弱いから、法の名宛人(守らねばならない側)は、国ということになるから、憲法の組み立てはそうなる。

しかし、憲法の根本にあるのは、国民の幸福追求権ということなのだと思っている。
日本国憲法はその13条に、すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。と定めている。
ここで保護されているのが幸福追求権である。本条は現行憲法上の規定であるが、自然権の宣言規定とも解される。

そこで、幸福追求権ということで考えるとき、幸福と言っても、個々人によってその求めるものが違うのは当然である。
いずれにしろ、それを求めるためには自由であることが不可欠であるが、それもこれも生きていなくてはどうにもならないから、生存権というのが第一番に重大な意味を持つのだと思う。

国民の生命財産を守るためには、外に対しては軍、内に対しては警察というものが不可欠になる。
そのためには費用がかかるから、納税の義務ほかの3大義務が必要になってくる。
そういう順番で、全てが連携して働くように体系化されている法なのだと思うが違うのだろうか?

「平和を守るためには話し合いで」と体裁のいいことを口にするが、「日本は外交力が弱い」というのが、海外に知人を持つ人なら誰でもが、これまでに言われてしまった経験があるのではなかろうか?力のともなわない正義なぞあるのか?とも問われる。
海外では、国にしろ個人間にしろ主張は厳しく、優しい話し合いで決着がつくものではないことは常識である。

現に、日本は話し合いは厭という程してきたではないか。
それにも拘わらず、脅威は増してきているのが現実だから、それに対処するために抑止力は持っていなくてはなるまい。
「病気は予防してはいけません。かかってから治療しなさい。」と言うに等しいことを言われて、それを素直に聞いていたのでは手遅れになる。
天は自ら助ける者を助く、というのが真理ではないのか?

テロ等防止法だか共謀罪だか知らないが、それについても触れるなら、今もって海外の知人から指摘され続けるのは、オーム事件だと海外在住経験者は言う。「今もって残存勢力が残っていることなぞ信じられない。日本人は何を考えているのか?」と問い詰められる。

日本国内で言われているようなことでは、海外で信用されないのだということを、意外に大多数の人が知らない。そういう報道は決してされないから、知る由もない。
法案の審議をしないで、森友学園に時間を費やしているが、法案の成立に不安があるのなら、共謀罪の取り調べをするときは、それが可視化されることを修正案として提案し審議したらどうなのだろう。
共謀罪どころか、旧東側の国における秘密警察や、密告制度が、友人知人家族までも信じられなくなった世界であったことを考えたら、もっと真剣に捉えた方がいい。

国防について話を少し戻すが、今どき他国から攻められるとしたら、その敵は船に乗ってやってくるわけではない。
それであるのなら、対応する時間的な余裕はあるだろうから、専守防衛でも良いのかも知れないが、最初の攻撃はミサイルという飛び道具であろう。
攻撃を受けてしまったら、壊滅的な被害を受けて全て終わる。
使うことはなくても、敵基地への攻撃や、報復攻撃ができる能力があることが抑止力として働く。
よく、左翼系の人が「一体どこの国が攻めてくるのだ?」というが、同じ論法で「日本が一体どこの国を攻めるというのだ。」と言いたい。

憲法を護っていて国が滅びてしまったら、生存権もなにもあったものではない。死んでもそれを守るのだと本気で思っている人がそんなにいるとは思えないのだが・・・


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