2017年4月30日日曜日

応神天皇の時代に大挙渡来したのだという

弓月の君

日本・ユダヤ同祖説というのがある。伊勢神宮を参拝すると六芒星を見たりして、それを感じることがある。それはそれで面白い。
似た言語、風習や祭りに、そうかも知れないと思わせられることも多い。
国歌である「君が代」も、ヘブライ語で読むと意味が通じるのだという説もある。
日本人の先祖そのものとまでは言わなくても、渡来してきたことで混ったり同化したことはあるのだと思う。
契約のアークも、日本のどこかにあると唱える人もいる。
とにかく、日本の国は神話の昔から謎が多い。
神話自体が壮大であり、単なる絵空事ではないのかも知れない。

秦氏という渡来人が居たことは広く知られている。ユダヤ系であるという。
秦の始皇帝の「秦」という字を使うが、「しん」とは呼ばないで「はた」と呼ぶ。
関係はないのかも知れない。

「弓月の君」という方がいたのだという。
古代イスラエルの人々は、離散した後、流れてキルギスの北部のエニセイ川源流あたり(現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てたとされている。
何の符合かわからないが、その近くには「ヤマトゥ」という地名があるらしい。

この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹貿易をしていたという。
キルギスの伝説によると、「キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人となった。
日本人はキルギスのことを余り知らないが、かの国では日本の国に親愛感を持つ人が多いのだという。
応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したという。
この訪問のあった翌年、仲哀天皇は旅先で薨去した。
后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)は身重の体で新羅に出兵、帰国の途で応神天皇を出産したというのが神話にある。
后の出兵は唐突であり、わからないことが多い。
帰国後は摂政として国の運営に当たるが、やがて応神天皇の治世になります。
応神天皇14年、弓月の君が再び来日し、日本への移住を求めた。
新羅が邪魔をするので兵を出して新羅を鎮め、応神天皇16年に弓月の人々を迎えた。
秦氏の来日は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の18670人を連れて 日本に来たという。大人数といえる。
弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、 天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。

歴史ではこういうことを教えないので、興味を持ったら自分で調べるしかないが、専門的にみたら違うかもしれない。

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