2017年4月19日水曜日

日本スタンダードになれば

なにか偉大なもの
 神様は、乗り越えられないような困難をお与えにはならないのだとか。
 何事も、なんとかなるのであります。

 「お上が、ご苦痛であると思し召すほうを、この際はお選びになるべきであります。」と書かれた文書を読んで連想したのが、「その方等はよいのう。朕には辞職がない。」とおおせられた明治天皇のおことばでした。

 「みんながそうしているから」というのが、関連のいくつかの要因だという人がいるが、そうなのだろうか?

そもそも農耕民族は、種まきの時季にしろ何にしろ、経験豊富な長老を始めとする皆と合わせることが上手くいくというあたりが、狩猟民族と違うところであります。

確かに家畜を追って草を求めるには、人と同じ事をしていたのでは、既に食い荒らされた場所を辿るに等しいから、豊な草葉を見つけるのには、経験のある長老でなくても若い閃きのあるリーダーに従うことが多かったろう。
だから、過去の経験に従うだけでなく主張しあうということに馴染みはあったと思われる。

 農耕民族である日本人は、自分の意見がないといわれるが、ないのではなくて、それぞれの信念、哲学、矜持を内に秘めながらなお、皆がよかれと言わず語らず理解しあい選んでいく智恵を、2700年の歴史のなかに育んだのである。

 自己の権利主張を声高に叫びはしても義務をないがしろにして憚らず、はては自国をも自虐的に貶めるような論調を不思議とも思わず、我さえよければ他を省みなくても良いとなってしまった結果が、昨今随所にみかける破廉恥きわまりない所業となって現れているのではないだろうか。

 いつからのことなのかと嘆かわしく、何でもかんでも古くからのものを否定してしまったことで、失われた美徳の数多かったことが思われてならないのであります。

 愛国心は強制されるべきでないとの主張はその通りだろうけれど、国を愛さなくてもよいと教えるのもまた極めておかしなことであろう。
 外国を旅して思うのだが、彼等は、自分または店、或いは会社のミスに対し、「それ、自分の担当じゃない。」「知らない。」「関係ない。」と言うのが大半であり、最高によい状態と思われる謝りかたでもせいぜいが「それは貴方にとって大変不幸なことでした。」という何がなんだかわけのわからないコメントがあってお終いである。
それ以上のことは賠償に繋がるから頑として認めない。

 ソレに比べ、日本がいかによい国であることか!
グローバルスタンダードより日本スタンダードのほうがいい。

そうはいっても、最近の国会質疑を見ていると、国民目線というより犯罪を起こしかねない人の目線から、こまかなことをあげつらって全体を反対しようとしているように見える。

日本の国も、大分変ってしまったようです。


0 件のコメント:

コメントを投稿