2017年8月10日木曜日

邪心を叩くことが改めるということなれば

「いきもの」というのは、必ず何かとつながっていることで生をなしている。
植物であれば根が土と強くつながっているし、気候その他を感じ取ることができて周りとつながっている。動物であれば更に、縦横斜めにつながりあってこそ、命を命たらしめるものとなる。
それらを繋ぐものが糸のようなものなのか意識なのか、それとももっと別なものなのかは解らない。
体と心、人と人、人と大自然たる外界、それらに如何にかかわっているかということに意識を向けることは殆どないから、気づかないままで日々を過ごす。
もともとが一つであるものが別れてこの世があるのだとしたら、霊長類として生まれたことの役割は奈辺にあるのだろうか?

高校時代の漢文の時間に、『巳は上に(みはうえに)、己(おのれ)己(つちのと)下につき、半ば開くれば已(すでに)已(や)む已(のみ)』というのを習った。
「改める」という字は、己偏に攵(ぼく)という旁をつけてできている。攵というのは、「かしこまる」という意味、或いは棒で叩くということを表す。
即ち、巳という字が表す蛇(邪)心を叩いて己ということになる。

今更ながら悔いたところで適わぬことかも知れないが、論語・学而にみえる「己に如かざる者を友とするなかれ、過ちては則ち改むるに憚るなかれ」とある通り、一つでも二つでも改められたら・・・
そんなことを感じて書き始めた小説「夏風越しの」であったが、あれもこれもでは収拾が
つかなくて、一旦は終わりにしていた。

構想があるわけではないけれど、そろそろ次に進めと神様がおっしゃっている。
暑いのに難儀なことだと怖気を振っているところです。
責任というのを英語ではresponsibilityという。これは、response(返答)ということばから来ているのだとか。
神の呼ぶ声に対し、「I am here.」と答えるか、「俺を呼ぶのは誰だ?」と答えるかで結果は違ってくる。
課題を果たしていかなければならないのは他人ではなく自分なのだと、この年にして漸く気づいている。


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