2017年8月1日火曜日

ご都合主義で使われがちな言葉

ものごとを解り難くする言葉というのがある。
どのようにすれば良いかと考えを進めるときに阻害要因となるように思えてならない。

例えば、「外交努力」。
国防について論じるとき「それは外交努力でするべきだ。」といって終わりにすることがある。
困ったことに、では、その外交努力というのは具体的にどうするのか?ということは決して言わない。
仮に言ったとしても、現実的に可能な方法なのかというと、そんなものは最早残っていまい。
できる外交努力は既にしていると思う。
国防というのは、外交努力もその一方法ではあるが、それだけで済むのではなくいくつもの手立てがあって可能となるのであるから、必要と思われることは全て検討して策を構じるべきではないのか?

次に「平和憲法」
平和と憲法は、本来別のものであろう。
憲法があるから平和なのだという主張は、極論を言わせてもらえば空論に思える。
刑法があれば犯罪は起こらないというに等しいのではないのか?
憲法を改正すると戦争になるという主張も、戦争反対の感情を煽るのにはいいかも知れないが、
できたら戦争になるなどという憲法が成立する筈はあるまい。
現実に対応できる法の整備ということについて、議論することも反対するというのでは、憲法を考えるのには本末転倒ではないのか?
国民は愚かではないから自分で考える。少なくともマスコミが決めることではあるまい。

「報道しない自由」
本来、報道というのは全ての知り得た事実を伝えるというのが役割なのではないのか?
であるから報道の自由ということには正当性があるのだと思う。
もとより、国家機密に関連する事柄であったり、秘匿性の高い特許に関連することであったり、プライバシー上問題があることであったりするものであれば、伏せられて然るべきである。
どういう条件下にあるものを報道しないとするか、予め明示しておく必要があるのではないのか?
それらに合致しなくて報道しなかったものについては、その理由のなっとくできる説明がなくては適うまい。

「忖度」
それがあたかも悪い事であるかのように言われるが、それがなくて社会生活が成り立つとも思えない。

「権利」
文字通りに読めば、仮の利益。
何らかの条件のもとに、享受できるように保証されている利益であるから、無制限に主張できるものではあるまい。
義務というものと表裏をなすものである筈であるが、義務ということを果たさないことが多すぎるように思える。

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