2017年8月9日水曜日

悪目立ちしたところで

世の中には認められたいとして足掻く人は多い。
普通であることが如何に重要なのか、普通でいてなお尊敬されることが如何に偉大なことなのか、ということを考える人は少ない。
世の為人の為ではなく、あくまで個人の我欲のためにかき回されたのでは、周りはたまらない。

自分が特別な者なのだと認めさせたい人たちというのはすぐに判る。
自分が能力的に届かないと気づいたときに何をやるかということである。
まず、辛口のコメントをして悪ぶることで目立とうとする。
TVなどでも何人か目にするが、他人の悪口を言っていて自分はどうなんだということになったら一たまりもあるまい。
短期的には成功しているように見えても、そんな人になりたいとは誰も思わない。
もし志があって、一時の方便としてそうしているのだとそたら、使い捨てにされないためには、その後に真摯な努力が要るし、誠実であり続けなくてはならない。
嫌われて終わりだということにでもなったら情けないではないか。
炎上商法だとクササレている人たちは、太く短く生きようとしているわけではあるまい。

他人の悪口を声高に叫ぶ人たちに共通しているのは、自らを善なる者と僭称すること。
そんなわけはあるまい。
例えば安全保障についてどう考えているか?ということについて言えば、どうやって国民の生命財産を守るかということについてお案を説明したことは一度もあるまい。
お花畑の住人さながら、「外交努力で・・・」とか「平和憲法を護ることで・・・」とかを繰り返すだけで、現実的な議論を避ける。それで善人を気取るとしたら楽過ぎる。

ミサイル攻撃に対応するには費用が嵩む迎撃ミサイルを整備するよりも、敵基地を攻撃するミサイルを整備する方がよっぽど効果的だし費用だって極端に安く済む。
こんなことは常識的に考えれば簡単に判断できる。
それをしないでどうやって平和を維持するかというのに納得できる説明はあるのか

武器は、あれば使うとすぐに彼らは反論するが、抑止力となるものをすぐに使うわけはないだろう。
正義の味方というよりは、日本を敵視する国の味方のような論を張るからすぐに偽善だとわかる。
自宅には塀もたてません、鍵もかけません、ただひたすら自分以外の皆さんのために働きます、なんてことができるほど、彼らが高潔であると信じられる行動を日頃からしているなら別である。
悪口雑言の限りを尽くして得られる信頼なぞない。

すぐには認められなくても、より良い結果を求めて、善人は足掻いているのである。

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