2017年8月2日水曜日

「もののあわれ」が下地としてある?

武士、ブシとも読むしサムライとも読む。
侍(さむらい)の語源は、貴人のそば近くに仕えることを意味する動詞「さぶらふ(さぶらう)」の名詞 形「さぶらひ」に由来する。
「さぶらふ」は、「守らふ(もらふ)」に接頭語「さ」が付いた「さも らふ」が古形となるのだという。「さぶらひ」は貴人のそばに、武芸をもって仕える男のことを言った。
我々がその武士(さむらい)という言葉を使うとき、強いことだけを指してはいないと感じる。
そこに求められているのは、「もののあわれ」を解する力であったり、「潔さ」であったり、「自らを自らが律する」高潔さであったり、公に殉じる心であったりが備わってことが要件のように思う。
そういうものが綯い混じったものを、自然に理解し尊敬するし、そうありたいと願いもする。
日本の神道に経典は無いとよく言われる。森羅万象の全てに神を感じ取り畏まることが自然にできるのが日本人なのだと思う。
誰が見ているわけではなくとも自然にそれができ、説明するまでもなく、互いがそうできる。
「美」というのも、同様に捉えているように感じる。
派手な色や形をもって美しいとはしないし、そこにもやはり「もののあわれ」ということが介在しているように思える。日本人というのはそういうものが根底にある。
世界各国から神秘的だと評される日本人の精神は、単一民族だからできてきたことではなく、繰り返し襲ってくる大自然の脅威の中、八百万の神々と共に互いを思いやることで培われ育まれてきた心のありようなのだと思う。
颱風の季節を迎える。



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