2018年3月12日月曜日

品の悪い使節団であった


朝鮮通信使が世界遺産に登録されるまでの経緯というのをTVでやっていたが、途中で見るのをやめてしまった。
例によって韓国側の学者が口角泡を飛ばして彼らの主張を述べているのを聞いて、どうせ日本側が大幅に譲歩して纏まったものなのだろうとしか思えなかったからである。
朝鮮が日本にいろいろ教えてやったのだと言うが、わざわざやってきてまで親切にものを教えるような民族ではあるまい。
日本は、学びたいことがあれば、こちらから出かけていくというのが古来からの姿勢である。
浅学との誹りを受けようとも、少なくとも江戸時代以降に、彼らが教えられるほどのものがあったとは思えない。
(登録資料を見たわけではないから、余り大きなことは言えないが、基礎的なことは前に読んだことがあるから、あながち此方の身勝手とは言えないと思っている。)

「朝鮮通信使」とは、室町時代から江戸時代にかけて「李氏朝鮮」より日本へ派遣された外交使節団のことである。戦国時代には途絶えていた。
江戸幕府は朝鮮通信使の来日については「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」と称するのが一般的であった。
即ち朝貢外交に来ていたということになる。
主たる目的は、日本が朝鮮に侵略する動きがあるかどうかを探ることであったと思われる。
今の韓国人が主張するような、日本に文化や技術を教える為であったなどということでないことは確かであろう。なぜなら彼らにそんなものはなかったからである。

李氏朝鮮には、支配階級の両班、中人、常人がおり、被支配階級の奴婢、白丁と言う制度があり、支配階級の最上位である両班は、中人、常人を使い奴婢、白丁から収奪をするだけで、労働をすることを蔑んでいたにもかかわらず、中国に冊封されて成り立っていた王朝である。

李氏朝鮮時代の500年、支配階級は徹底した悪政を行い、極悪非道の利己主義的な方法によって国を支配していた。権力の座に座った者は暴虐の限りを尽くし、民衆はただ搾取の対象でしかなかった。奴隷(奴婢)が、国民の大半を占めていたのである。

日本側から見れば、李氏朝鮮という暴力団が、幹部が捏ねる口先の小理屈のもと、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域でしかなかったと言える。
その社会といえば、李氏朝鮮は相互不信社会で、誰であろうと、いつどこで、誰に裏切られるかわからないという不安があり、お互いに嘘で騙し合っていたのである。裏切りはお互い様で、騙される方が悪い。
朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えこまれた。下になったら、何もかも奪われる。どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だとなってしまっている民族なのである。

韓国が「李氏朝鮮」を"美化"するのには理由がある。その後の日本統治時代を暗黒時代として描くためには、捏造してでもそうせざるを得ない。
朝鮮通信使についても同様で、あくまで「日本に対し文化を教えてやった立場である」としないと、韓国が捏造する歴史の整合性がとれなくなってしまう。
反日感情の一番大きな問題点は、彼らが日本統治以前の李氏朝鮮を知らないということである。「今の自分たちのようにとてもよい暮らしをしていたのに、ある日突然日本が襲ってきて」という錯覚があるからである。それが日米のお陰なのだということに考えが及ばないような刷り込みをされているからであろう。
韓国人は、李氏朝鮮がいかに地獄の様相を呈していたかを教えられる事はありません。韓国政府が都合良く作り上げた大嘘の国定教科書で勉強し国民のほとんどがそれを信じています
ネットで調べるだけで、それが大嘘だと判るのに、それはしない。

江戸への旅で、過剰な接待を受け続けた朝鮮通信使の一行は、甘やかされた子供のように、躾をされていない犬の如く、どんどん傲慢になり傍若無人な態度をとるようになっていたことは、日本各地の通過地にそれらの言い伝えが乗っている。文化人などといえるような代物ではなかった。
「朝鮮通信使」が、鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵 も残っているし、宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれて、朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといわれている。

日本で目にした技術や文化は当然報告された筈だが、それを獲り入れることができない文化程度であったから、木を曲げる技術すら身に付かず、水車も荷車も木桶もつくれなかった。

日本は、戦前も戦中も戦後も酷い目に会っているのである。こういうことはキチンと教えた方がお互いのためだと思う。

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