2018年3月27日火曜日

今更どうにもならないことは

人には如何とも為しがたいものがある。
それらはいろんな関わりの中での想念となって現れ、それに捉われると、精神を苛まれる。
外に向ける想念が強ければ攻撃的になり、内に向かえば鬱状態となって、そこから抜け出せないから、それが原因となって長く続いてしまうものを「業(ごう)」という。

人は今更悔やんでも取り返しがつかないような過ちを犯してしまう。
誤った想念や行動は、ある日突然「苦しみ」となって自らの身に現れる。
原因となることがあって、因果の法則が働いているということであるから、身に覚えがないといってばかりもいられない。過去世の過ちが今表れたのかも知れない。

しかし、苦しみとして表れたということは消えるということであり、消すことのできるチャンスなのである。
消える為にあらわれたのに、それを新たに掴みなおしてしまうから、業として更に強まりいつまでも残る苦しみとなってしまう。
大いなる意思(神様といってもよい)は、人間にそんな苦しみを負わせ続けるわけがない。
何故なら、大いなる愛であり大いなる慈愛としての存在が神だからである。

ではどうするかということになるが、どんなに自分勝手なことかとは思わないで「現れたからには必ず消え去ると信じ、先ず自分を許す。自分を許すのだから他人も許す。そうして自分を愛し人を愛す。」以後、愛と誠の言行を為し続けるように努力する。

日本には昔から「禊」という風俗がある。自然に身に付いた知恵なのだと思えてならない。
もっと言えば、正月という行事がある。昨年1年間のもろもろをリセットして、新たに始めるための手続きなのだと思う。
捉われから抜け出すためなのだと思えば、意味が深いことを長きに亘って培ってきたのである。

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