2020年1月17日金曜日

人として生きるのに必要なこと


人が人と付き合っていくためには、根底に据えていかなければならないものが幾つかある。
その中でも大事なものに、義と信がある。

「義」の意味は、いろいろに言われる。
漢字の成り立ちは会意兼形声文字(+)である。「羊の首」の象形と「ぎざぎざの刃のあるノコギリ」の象形から、羊をいけにえとして刃物で殺す事を意味し、そこから、厳粛な(真剣な)作法」・「ふるまい」を意味する「義」という漢字が成り立ちました。

ここで「羊」は、頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されているが、そもそも羊は整然と並ぶ特性がある。
そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。
したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。

字の成り立ちはともかくとして、「義」というのは自分のことだけに捉われず、公の為に尽くす徳目として使われることの方が多いように感じる。
さらに言えば、公というよりは人として掲げる目標、と言った方が良いかも知れない。大義をどのように掲げるかで、人の人たる所以が生まれる。
現在の日本人が曖昧な動きをするのは、目指すべき目標を持てないからのように感じる。目標がなければ、希望も生まれない。希望がなければ空虚な時間を持て余すことしかできないし、仮令苦労をしたとしても、それを乗り越えた先にある喜びも得られない。
軸足を日本に置くことを阻害しようとする動きをする者たちの主張を安易に受け入れている間に腑抜けになってしまった。
生まれついた国・地域・家というところが原点であり、気づかないでいるだけでそこに意味があるのだと思うと、生き方が変わってくる。ことを為すことができる人は、そこに意識を向けた人だと思う。
ゴーンは、義を立てたのだと思ったから、何万人にも及ぶ人員整理を従業員は受け入れたのに、その実は法を犯して私腹を肥やすことに向かっていたのだったとなれば、糾弾されて然るべきである。

「信」という字も会意兼形声文字(++)である。「からの象形」と「取っ手の
ある刃物の象形と口の象形(つつしんで言う」の意味)から、発言にうそがあれば、受刑するをちかう、すなわち「まこと・真実」を意味する「信」という漢字が成り立った。
韓国は、500年にも及ぶ中国からの支配が続いている間に、小理屈を捏ねまわして自分は悪くないと言い逃れする技術ばかりが発達してしまったのだと思えてならない。儒教の有用性は、同じ儒教を学んだ日本と違って、白馬は馬ではないと主張する中国の白馬学派のような無意味な論争の学問の方に向かってしまったのではないのか。
両班たちが500年の間に身に浸みこませてしまった思考形式から未だに抜け出せないのかと思うと、気の毒を通り越す。

人の住む世界が安定的に治まるのには、信と義が共通していないと難しい。

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