ゴーンが裁判には勝てないと自覚したのか国外に逃亡した。
勿論、法を無視したのであることは言うを待たない。
レバノンもフランスも彼に同情的な意見が多いというように報道されているが、それが正義だとでもいうように誘導しようとしても、許す理由にはならない。事件が起こったのは法治国である日本の法律が施行されている域内でのことである。
レバノンもフランスもゴーンの母国であるから、彼がレバノンやフランスに入国したなら身柄を引き渡さないことはあるかもしれないが、誰がどう胡麻化そうと犯罪者であることは紛れもない。(確かに裁判による確定判決が下されていないから、推定無罪との抗弁は成り立つが・・・)
しかし、彼がフランスへの税金逃れのために、居住先を度々移していたことで、フランス国内でも問題視され、それが影響して日産の取締役として彼が残るのを仏政府が断念したのではなかったか。そういう人物を擁護しきれなかった。税金逃れは卑劣な行為とされている。
それは別にして、問題なのは日本国内で彼を擁護する意見を述べる人が案の定出てきたことである。
曰く、日本の法制度がおかしいというのである。どこがどうおかしいのか、法治国家の法の整合性に矛盾することなく論理的に説明してほしいものである。
反日が主義だからそう主張するというのでは通らない。
日本の名誉と信頼を損ねる「反日的日本人」が、わが国にはどうしてこんなに多いのだろう。
1980年代から90年代にかけて国際問題化した教科書問題、靖国神社参拝問題、慰安婦問題のいずれも、自虐史観にとらわれた「反日的日本人」が国際的に火を付け、騒ぎ立てた点が共通している。
近年のユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」登録申請をめぐる問題も同じであった。中国が「世界の記憶遺産」に追加申請した「戦犯日本兵千人の供述書」は、事実を無視して日本の残虐さを強調する「南京大虐殺プロパガンダ」の中心的役割を果たしている。
戦後の日本人に罪の意識を植え付けた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を陣頭指揮したブラッドフォード・スミスは、1942年の論文「日本-美と獣」(コミンテルンの外郭団体の機関紙『アメレイシア』4月号)で、日本人の二面性(美しい心を持ちながら、「南京大虐殺」をしたという)が「敵の本質」であるとして、次の一文で締めくくっている。
「今は世を忍んでいる自由主義的な指導者たちに、過去の原始的な怪獣が決して再び台頭しないよう建設する機会を保障するため、私たちに何ができるであろうか」。
「本性に根差す軍国主義」という日本国民に対する誤解、或いは日本の伝統精神の弱体化を図るプロパガンダが、WGIPにつながったのだと言えよう。
1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。
マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での日本兵捕虜洗脳教育を、対日心理戦に利用できると確信してWGIPのモデルとした。
それは、エマーソンによれば「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」と弁明している。
米国自体が共産主義に脅威を感じていたから、その後にはレッドパージをすることになったのが皮肉ではある。
日米合作の太平洋戦争史観と、コミンテルン史観との奇妙な癒着が、戦後の「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツの基礎となり温床ともなった。
その成果が80~90年代の「歴史認識問題」を生み出し、日本を庇うようなことをいうと、歴史修正主義者だの右翼だのと指弾されることにつながったといえる。
歴史と言えど、真実が明らかになったら、書き改められてしかるべきである。それがそもそも歴史というものである。
中道或いは右寄り?な人にとって、混乱を煽る左翼は敵である。しかし日本にとっての真の敵は、左翼ではなく反日的日本人なのだと思えてならない。獅子身中の虫だからである。
よりよい方法を模索するとき、多様な考えというのは必須であるから、右も左もこの国を良い方向に導くためには必要なのだとは思う。
しかし現実的に民主主義というものを見てみるとよい。前に進めないのは、社会主義を教条的貪欲に取り込んで、それを叫ぶ者たちによってではないのか?
日本の左翼と称する者たちの多くは、断じて左翼ではない。思想的な意味合いでの左寄りでは決してなく、単に日本のことが嫌いで悪口を言っている反日的日本人にすぎないのだと思う。
彼らは反日の手段として、刷り込まれた左翼・マルクス主義を利用しているに過ぎないように見える。
左翼というのは国家権力の否定、国家解体論に行き着きやすいのが常であり、目指すのは暴力革命である。そこまでの覚悟があるとは見えず、ご都合主義に留まっている。
よりよい方法を模索するとき、多様な考えというのは必須であるから、右も左もこの国を良い方向に導くためには必要なのだとは思う。
しかし現実的に民主主義というものを見てみるとよい。前に進めないのは、社会主義を教条的貪欲に取り込んで、それを叫ぶ者たちによってではないのか?
日本の左翼と称する者たちの多くは、断じて左翼ではない。思想的な意味合いでの左寄りでは決してなく、単に日本のことが嫌いで悪口を言っている反日的日本人にすぎないのだと思う。
彼らは反日の手段として、刷り込まれた左翼・マルクス主義を利用しているに過ぎないように見える。
左翼というのは国家権力の否定、国家解体論に行き着きやすいのが常であり、目指すのは暴力革命である。そこまでの覚悟があるとは見えず、ご都合主義に留まっている。
即ち、反日的日本人の言うことには論理的整合性が無い。言うことも時によってコロコロ変わる。
「日本は駄目だ」と言い、その比較として持ち出した国が日本より良いとなど思っていない。
部分部分を取り上げるだけだから、反論されると逃げる。
彼らは反日したいがための手段としてだけにイデオロギーを利用しているのであって、そこに論理的整合性など求めていないからであろう。
彼らの主張は変幻自在で、あるときは民主主義擁護を訴え、あるときは環境保護を訴える。しかしそれら主張が他国に向くことはない。何故なら反日のため利用しているだけであり、彼らの主義主張が世界中で守られるようにすることなどに興味はないからだ。 だから、簡単に国際間の約束を反故にしたり、人権上に圧倒的な問題を抱える国を決して批判しない。
ひたすら日本を貶めるためだけにイデオロギーをもてあそぶ者、それが反日的日本人の姿である。
私は、生まれ育ったこの国が好きである。好きだということを堂々と主張してはばかることがない。同様に日本が嫌いだと主張することも自由だとも思う。
彼等が「日本を嫌いだ!」と喚くのなら、私も叫ばざるをえない。「日本大好きだ!」と。
それを国粋主義だとレッテル貼りをするのは、筋違いであり、かつ卑怯な行為だ。
彼らの主張は変幻自在で、あるときは民主主義擁護を訴え、あるときは環境保護を訴える。しかしそれら主張が他国に向くことはない。何故なら反日のため利用しているだけであり、彼らの主義主張が世界中で守られるようにすることなどに興味はないからだ。 だから、簡単に国際間の約束を反故にしたり、人権上に圧倒的な問題を抱える国を決して批判しない。
ひたすら日本を貶めるためだけにイデオロギーをもてあそぶ者、それが反日的日本人の姿である。
私は、生まれ育ったこの国が好きである。好きだということを堂々と主張してはばかることがない。同様に日本が嫌いだと主張することも自由だとも思う。
彼等が「日本を嫌いだ!」と喚くのなら、私も叫ばざるをえない。「日本大好きだ!」と。
それを国粋主義だとレッテル貼りをするのは、筋違いであり、かつ卑怯な行為だ。
自然に湧き上がる故郷が好きだという気持ちが国家主義だというならば、世界中が国家主義者だらけだということになる。
反日的日本人の言動にも不純さを感じる。 彼らが口にすることは、言っているほど人格に高潔さを感じられない。
連中が、我々は先の戦争を反省せねばならないというときの我々には、決して彼ら自身は含まれていない。
他者の犯罪を弾劾する行為は、それだけなら気楽なものだ。まるで自らが神ででもあるかのように振舞う根拠というのは何なのだと聞いてみたい。
反日的日本人の言動にも不純さを感じる。 彼らが口にすることは、言っているほど人格に高潔さを感じられない。
連中が、我々は先の戦争を反省せねばならないというときの我々には、決して彼ら自身は含まれていない。
他者の犯罪を弾劾する行為は、それだけなら気楽なものだ。まるで自らが神ででもあるかのように振舞う根拠というのは何なのだと聞いてみたい。
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