京都の近くを旅すると、信長のことを快く思っていない土地の人から六天魔王という言葉を聞くことがある。比叡山を焼き討ちしたことがその理由であろうと思われる。
歴史家でもないから、それらに異論を唱えるつもりはない。
六天魔王というのは、信長が1573年に、甲斐の大名・武田信玄から挑戦状を受け取ったときに、その返書を送る際し「第六天魔王」と署名した、という記録があることに起因していると言われているからであるが、資料としては乏しいようである。
武田信玄は信長と敵対するにあたり、信長が1571年に天台宗の総本山である延暦寺を焼き打ちしたことを理由に挙げ、これを強調するために「天台座主 沙門信玄」と署名した書状を信長に送ったことに対抗したものだとされる。合戦のための口実である。
実際には信玄は天台座主ではなかったので、信玄は嘘をついたことになる。
「第六天」とは、仏教の世界観において、人々が欲望に囚われて生きている浅ましい世界のことを指す。そこに住む魔王が人々から仏教を信仰する心を奪い取り、人々を欲望に縛り付けている、とされている。
信長が第六天魔王を名のったのは、信玄が延暦寺を復興しようというのなら、自分は魔王となってそれを妨げてくれよう、と宣言するためのものだったと思える。
事実、信長以降に、日本には宗教戦争といわれるものはない。
そもそもなぜ信長は延暦寺と敵対したのか?
それは比叡山延暦寺が軍事拠点だったからに他ならない。
当時の延暦寺はいわば僧兵集団の拠点であり、決して衆生の救済を願う無力な僧侶だけが暮らしているところではなかった。
むろん高貴な高僧もいただろうけれど、それとは正反対に権力を振りかざし、本来は禁制の女性を連れ込んだり、金貸しに手を染めて荒稼ぎしたり、やりたい放題をしていた。
殺生厳禁のはずの仏教徒だというのに、浅井家や朝倉家の軍事行動に肩入れしてもいた。
殺生厳禁のはずの仏教徒だというのに、浅井家や朝倉家の軍事行動に肩入れしてもいた。
実際、「志賀の陣」という戦いでは、比叡山という拠点が浅井朝倉軍にとって重要な陣にもなっていた。
高利貸で財を蓄積し、僧兵を数多抱えて強訴などに及ぶ勢力は、織田軍にしてみれば、攻める理由としては十分であった。
それでも、流石にいきなり攻めかかったわけではない。
「武力を放棄して真っ当な寺になれ」と当たり前のことを何度か要求し、事前に降伏も呼びかけていた。
これに対し比叡山側は、行動を改めることもなく「お金あげるのでどうか勘弁してください」といった使者を出してきたりして、埒が明かなかった。実際、その時点で山から逃げ出した人も多かったといわれる。
それでも比叡山に残った人たちは「どうせ口だけで、仏門相手に攻め込めはしないだろう」とか、「こんな楽な暮らしは捨てられんわい」といった調子で信長を侮りきっていて、戦国時代の価値観から言えば殺されても仕方のない状況だったと言えよう。
いざ比叡山延暦寺に攻め込むと、逆らう僧兵達だけでなく、オンナ子供も殺しに殺し、果ては火を放ったというのが、伝えられている比叡山延暦寺焼き討ち事件である。
しかし、最近の発掘調査で意外なことがわかってきたのだという。
焼き討ちをしていたとしたら当然出てくるはずの燃えた木材などが極く僅かにしか見つからない。加えて、何千人も殺していたとしたらこれまた出てくるはずの人骨も、さほど多くは出土しなかったのだとされている。
もし本当に「全山焼き討ち」とか「数千人もの殺害」を敢行していたら、そんな筈はない。
いかに僧兵の跋扈に朝廷も手を焼いていたとはいえ、延暦寺には朝廷と深い繋がりがあった。
信長が焼き討ちを行ったとされる頃、延暦寺のトップは天皇の弟であったことからもそれと知れる。
いくら信長が「神をも恐れぬ」とはいえ、そんな人のいるところを丸焼きにしていたら、当然朝廷からお咎めがある筈。朝敵にされていても不思議はない。
信長は既に周辺の大名達から包囲されていたのであるから、朝廷がその大名たちに「信長は朝敵だから協力して討つように!」と勅命が下れば、最大の危機に直面する。
にも関わらずそうなってはいない。
当時の比叡山は仏教の聖地だったというより、むしろ世俗化が進んで激しく腐敗していたことが伺い知れる。
四階層(院来、堂衆、学生、公人)のうち、最下層の僧兵と呼ばれる「公人」たちが腐敗の中心であった。
普段は有髪のごろつきのような輩だった僧兵たちは、常に叡山の権力を笠に着て、肩を怒らせて山領の年貢の督促や貸付金の取り立てなどをし、僧でありながら有髪のままであることを隠すために白布で頭を巻き、黒衣をまとうことで外見上は僧を装いつつ武器を手に暴れ、日吉大社の神輿をかついで都大路になだれ込むなどは茶飯事で、要求を貫徹するまで乱暴狼藉を繰り返した。
彼らの多くは、叡山の門前町坂本や下坂本にたむろし、女色を漁り、魚鳥を喰らい、遊興費に困って料米、灯油、法儀料、布施などをくすね、不正な賄賂を貪り、あこぎな高利貸などをやり、脅し、騙りの果ては暴力を振るっていた僧ともいえぬ者たちであった。
公人と称する前記の破戒坊主たちは、山門領からの年貢米収納管理のほか、三千僧徒の食糧、消費物資の調達を掌り、警備も担当する役得をよいことに、歓楽の巷で、「天下の嘲弄を恥じず、天道の恐れ顧みざる淫乱」(『信長公記』)にあこぎな生き様に我を忘れていたのである。
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