2020年3月6日金曜日

責任を持つ信念がないと


獅子は我が子を千の谷に突き落とす。という喩がある。
そもそものそれは、虐待を正当化するということではない。本当に深い愛情をもつ相手にわざと試練与え成長させること、またはそのようにしてでも成長を促さざるを得ないと考えたときの親が、自分自身も覚悟をすえての行動に出るという考えを意味する語である。

近頃は、そんな信念のもとに動ける親は殆どいなくなった。それをすれば、それがどんなに子を思ってのことであっても、非難を浴びることは間違いない。
その非難を浴びせる側の人たちが、その子に対して責任を負うわけでは決してない。
何でもかんでも大人のおぜん立てや庇護のもとにあって甘やかされて育てられたら、信念を持って自立できる強い子が育ちにくいのが当然の帰結となる。うまくいかないのは親のせい・環境のせい・社会のせい・国のせいと言うことにして、全て自分以外が悪いのだとすることで努力や責任から逃れて平気な大人になりかねない。

相手や世の中の風潮に合わせて耳障りのよい綺麗ごとを並べ立てても、芯のところから子供たちの将来を考えてのことだとは思えない意見を言っているに過ぎないように思える人も多い。子供を育てるのは、時には強制が必要なときもあるのではなかろうか。
確かに、親の身勝手や感情をコントロールできずに子に対してしまう者も増えたから、一定の制限をかけねばならないことは理解できる。
しかし、考えてみると、そういうことをする親は、甘やかされて育ったのだと思える節をもっていないだろうか?
基本的に子が可愛くない親はいないし、責任を取るのは親だというのが前提である。
畜生にも劣る行為に走る原因の究明とそれへの対処が必要であることは言うを待たない。
民は宝、子は宝であるとして、地域全体がそれに携わる気風は殆ど絶えた。

巧言令色すくなし仁、というのは中国の論語から出たものであるが、それが中国のものであっても真理は真理であろう。
人倫を教える場がなくなったことで、失われてしまったことが多いようにも思えてならない。
教育の場で勇気をもって動くことが悪のように扱われたら、世の中は乱れる。

戦後、びくびくして外国の顔色ばかり窺い、人から悪く思われることを極端に避けようとすることばかりに走り、面をおかしてでも正義を貫こうとする気概が失われてしまった。
ゴーンの言いたい放題に手を拱いているのもそうである。違法・無法に対しては、仮令相手が外国人であったとしても、法に照らして制裁手段を講じる勇気がなくてはならぬ。
日本の司法がどうだのこうだのホザイテいるが、その国にあってはその国の法に従うのが当然である。
中国に在っては中国の、イランに在ってはイランの法に従うのであって、それにとやかく言うのであれば、そこでの生活はできない。
日産のクーデターだなどと言ってみたところで、彼の犯罪性を除却できるわけはあるまい。
見当違いなことを言い立てて、論点をずらしたいのかも知れないが、裁判から逃げたことで、
自らの有罪を認めたに等しいことは、説明するまでもない。

日本は、言うべきことを言うべき時に言ってこなかった結果が、ゴーンであり、慰安婦問題であり、徴用工問題である。
言わなくってもいずれ解ってくれるなどというのは、日本以外では通用しない。
互いにとって不幸を招く基である。

0 件のコメント:

コメントを投稿