2020年3月1日日曜日

文化の取り入れ方に差があった


日本はその昔、海外からの文物を取り入れて学んだことは疑いない。
とりわけ中国から学んだのであるが、聖徳太子の時代には、そのための遣唐使の派遣を廃止した。
海を渡る危険を考えると、派遣することで優秀な人材を失いかねないこともあったのがその理由であったと言われるが、もはや学ぶものが殆ど無いという判断もあったのではなかろうか。
半島経由の道は、そこに蔓延る蛮族の地を通ることでもあったから、もっと危険であった。

日本は、学んだことを全て取り入れたわけではない。その都度、賢い選択をしたのである。
取り入れなかったものには、宦官・纏足・科挙制度・刑罰などがある。
生きている男性を去勢する宦官や、幼女のうちに足が大きくならないように包帯などで固定する纏足などは人道上受け入れなかったし、科挙は実益とは程遠い学問であったことで採用されなかった。
刑罰については、残虐すぎる凌遅刑(りょうちけい)などというのがあった。
清の時代までの中国や、李氏朝鮮でおこなわれていた処刑の方法である。
斬首などのように一息に死に至らしめるのではなく、存命中の人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間というはおろか、何日にもわたり激しい苦痛を与えて死に至らす処刑方法であった。
韓国ドラマなどを見ているとそれを窺わせる場面があるが、裁判が適正だとは思えない。いわゆる讒訴によって、故なくその刑を受けることの方が多かったのではなかろうか?
政敵をほうむるには、腹いせと見せしめを含め、可能な限り残虐に刑を執行した。日本が併合したことでそれを禁止したが、それまで続いていたのである。
判断することができず、何でもとりいれればそうなる。

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