2020年3月4日水曜日

民間人に死者がでるのは兵器のせいなのだろうか

未だに民間人が攻撃されて多数の死者を出したり、難民が大量に出てしまう内戦が多発している。

日本における合戦は、その殆どが殲滅戦ではなかったし、合戦に加わって戦った武将や兵員は死んでも、基本的に民間人の死者は出なかったとされる。
戦国時代の戦いは何でもありの激戦ばかりをイメージするが、実際は少し違っていて、源平合戦のように、戦いのルールが様々あったようである。

近代になってハーグ条約等というものができる以前に、日本は一般人を攻撃しない合戦をしていたのであるのに比べれば、その条約を締結していてもなお民間人を攻撃対象にした西欧諸国の戦争とはかなり違う。

武将同士の合戦では、およそ両軍が出会い頭ですぐに戦うということはなくて、両軍共に勝鬨をあげたり罵倒しあったりしてから戦い始めた。
日本の地形は平野部がかなり限られるので、両軍共に互いの進軍ルートの予測が簡単であったために、桶狭間の戦いのような奇襲戦は滅多になく、両軍が対峙するための一定の広がりがある場所が戦場となった。

最初は弓、鉄砲での射ち合いから始まり、戦力に差があり過ぎることで、弓・鉄砲での応酬だけで勝敗がついて終わることも珍しくなかったようである。それで勝負がつかない場合は、馬を乗り入れての接近戦となった。
その当時は雑兵が主戦力だったから、不利になるとすぐに逃亡してしまうので、戦死者はかなり少なかったようである。
ボクシングの試合からも判るように、命がけで戦うには連続で3分くらいが限度であり、長時間戦い続けることもまたなかったのだとされる。
戦いの勝者も執拗な追撃、皆殺しは行わないのが通例で、降伏勧告を行い無駄な殺生を避けて服属させた。

それでも戦死者が多い合戦というのはある。
戦死者が多くなるのには、包囲戦というのがあるが、籠城した側が包囲殲滅されるぐらいでしかないので、日本では野戦での包囲戦例は少ない。

海外での例では、古代ローマ・カンネの戦いで、カルタゴ将軍ハンニバル率いる5万人がローマの軍勢8万人をカンネで包囲殲滅してローマ軍の戦死者6万人、捕虜1万人と云う戦果を出して圧勝をしたというのがある。
因みに、ハンニバル軍は戦死者が5000人くらいであったという。

日本では、落ち武者狩りなどのように執拗な追撃戦をしなければ、死者は限られた。長篠の戦いでの一説によると、長篠の本戦では武田軍の戦死者は1500人程で追撃戦による死者が7000人前後と云われている。
関ヶ原の戦いも追撃戦による戦死者がかなりの人数であったと云われている。関ヶ原の戦いは、両軍合わせて20万弱の兵が激突したのだとされる割には戦死者が8000人と少なく、第四次川中島の戦いでの戦死者7000人と比較して激戦ではなかったといわれている。

中国は、それに比べたらけた違いである。
三国時代の前、漢代の平和な時代においての人口は順調に増え続けており、漢代140年の時点で世帯数はおよそ970万、人口はおよそ5,000万人いたとされている。それが280年の調査では、およそ250万世帯で人口1600万人にまで減少していたのだという。死者が激甚であったということになる。
彼の国は攻城戦であるから、城に籠る一般人も攻撃の対象になる。
何十万人も生き埋めにしたという話が随所に出てくるから、毛〇東が大躍進と文化大革命で6.500万人。別な統計では9.000万人の自国民を殺したというのも、あながち嘘だとは思えなくなる。

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