2020年7月17日金曜日

暗躍したであろう宦官たち


中国の時代劇を見ていると、宦官というのが必ず出てくる。大抵は禄でもない人物であり、宦官が居たことで成功したという事例は寡聞にして知らない。
牧畜をやっていた民族だから、去勢は手慣れたものだったかも知れないが、麻酔薬もなくそれを人に対してなすというのは、余りに非人道的である。
慕華姿勢を鮮明にしなければ、生き残ることすらできなかった朝鮮もそれを採用していたが、碌なことにならなかったことは同様である。
宦官の行動の根底にある考え方というのは、彼らの民族の中に残り続け流れているのだと理解しておいた方がよさそうである。権謀術策が民度として培われている。
日本は中国から多くを学んだが、宦官と科挙の制度は採用しなかった。ちゃんと取捨選択したのである。
日本ではそんなことをしなくても、優秀な人材は身分の高下を問わず取り立てて重く用いた。

中国史の本を読んでいても「宦官」という文字がしばしば目に触れる。
後漢の朝廷を支配した「十常侍」、劉禅に寵愛された黄皓が有名ある。彼らは総じて、皇帝の寵愛をかさにきて国を滅ぼす原因を作った「獅子身中の虫」というケースが殆どである。
最初から宦官なんて置かなければよさそうなものだが、後宮で寝起きする皇帝自身や妃たちとなると、身の回りを世話するのは宦官と宮女。幼い頃から宦官に頼り切り、成長してからも身の回りの世話を任せていた皇帝たちにとっては、不可欠な存在であった。
そもそもは、後宮で働く男たちと妃や宮女たちとの間にあやまちが起きないよう、去勢したのが始まりだとされるが、自発的に去勢をしたがる男なんてのはいまいから、最初は戦争で捕虜にした異民族や、死刑に次ぐ刑罰である「宮刑(去勢)」を受けた者が用いられた。
李陵の弁護をしたため宮刑にあった「司馬遷」の悲劇は有名である。彼は生き延びることで「史記」を後世に残す道を選んだ。
しかし、時代とともに状況は変化し、自ら去勢して宦官になろうとする者が現れた。
永楽帝の時代に宦官の特務機関東廠を創設した。この組織の長官は酷かった。
この自宮ブームが頂点に達したのが明代(1368 - 1644)。宦官の弊害を知る皇帝側は、度々禁令を出してはいたが、効果が出ないどころかかえって希望者が増える始末であった。家族を失って途方に暮れた・家が貧しい・博打で大負けした・そんな理由で「自宮(自ら去勢)」に及ぶものが続出した。
中国で官僚になるためには、超難関である科挙試験に合格しなければならない。才能があっても試験官との相性が悪いばかりに落ち続ける人もいたりするし、ある程度のお金持ちでなければ試験勉強すらできない。
宮廷に潜り込む究極の裏口手段として、自宮して宦官になる道があった。科挙、従軍、官吏、そして宦官が庶民の出世ルートになったのである。
宦官になれば出世が約束されたわけではなく、陰険な足の引っ張り合いの中を生き延びなければならなかったのであるから、立派な人格者とは程遠い者になった。

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