2020年7月7日火曜日

北海道までとられなくてよかった


ロシアは憲法改正を果たしてプーチン大統領の任期延長は可能になったが、懸案であった筈の日本への北方領土返還は遠のいた。
交渉事についてはどうにも信用できない国として対応するしかなく、日本による経済援助や技術供与などもってのほかと考えるよりない。

占守島の戦い(しむしゅとうのたたかい)は、大東亜戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)818- 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。ソ連は89日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦。ポツダム宣言受諾により大東亜戦争が停戦した後の818日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

隊長池田末男は、815日の玉音放送後、終戦業務にあたっていた。しかし、818日午前230分、千歳台の戦車第11連隊本部で堤師団長から戦闘配備命令を受けると、ただちに大和橋の第4中隊に索敵を命じ、本部および隷下の各中隊に戦闘準備と天神山への集結を命じる。自らも天神山に赴き、戦車第3中隊と合流、その後、第4中隊長の伊藤力男が村上大隊の孤立を報告する。このとき、まだ将校車と第3中隊しかいなかったが、部下たちに、「赤穂労使となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」を問い、全員が玉砕を決意し、これを受けて敵軍に向けての出撃命令を下す。ソ連軍を撃破し、四嶺山を奪還するも、その後の戦闘で戦車が攻撃を受け炎上、戦死した。
ソ連は北海道を占領する気満々であったが、このこともあってかろうじて日本は守られた。

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