2020年7月3日金曜日

世の流れには抗しきれなくなったか

先日TVを見ていたら、これまで憲法改正には真っ向から反対し、憲法の「け」の字さえ話題になることを拒んでいた左派系の論客たちが、「議論することさえ罷りならぬということでは国の安全保障がなりたたなくなるのではないのか?」と質問されて渋々答えていた。
仰天したことに、安倍総理の次の代になれば、それは可能になると平気で口にしたことであった。
恐るべき二枚舌である。民主主義国家で、彼らは国民のためではなく一人のために議論さえしないとしているということに他ならない。
報道されることを必死で押さえ込んでいるが、近隣国の覇権的侵略が危険の度合いを増していることは、国民の多くが既に知っている。現憲法下では、まったく対応できない。
国防を考えない主張を続けていたら、自分たちの身がもたないとの自覚は十分に持っているということになる。
近隣国からの脅威は、無視できなくなってきているとの判断ができないほど愚かではないからである。

そもそもが、憲法を改正したら戦争になるという主張は矛盾だらけではないのか?
むしろ改正することで抑止力を高め、戦争を避けることができるのではないのかと判断している国民の方が多くなってきているように感じる。
重大問題であればあるほど、時間をかけて議論を尽くすべきである。
その議論になったら負けてしまいそうだから土俵に上らないというのでは、卑怯である。
最終結論は国民投票によるのであるから、議論もしないで押し通そうとし続けるのは、国民を馬鹿だと見下していることにほかならない。
何もしないことで平和が保てるなどというのは、幻想そのものであろうに。

別のTV番組では、コメンテーターらしいけれど、いつも的外れなことにこじつけるために長々個人的意見を述べる人が、沖縄の基地はなくして日本独自の策を考えるべきだと必死の形相でまくし立てていた。例によって、では何をどうしたらよいかという意見は、一言も言わない卑怯さであった。
彼の主張を可能にするのには、敵基地攻撃能力を認めるということと同義なのではないのか?
左がかったことを言うキャスターたちも流石に言葉を失って、押し黙っていた。

要するに、国防問題になると支離滅裂になって、論理的に一貫した主張ができなくなってしまっていることにも気づかないということなのか?

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