2017年7月5日水曜日

故意に報道しない自由を使っていないか?

物には全体像というものがあり、語る言葉には流れというものがあるし、真意というものがあるから、論理的に考えればそれらが何を主張しようとしているかは理解できることが多い。

しかし、一部分だけ切り取って、自分の思惑に添って他を批判する為の材料として使おうとしたら、誰が何を言ったとしても批難の対象とすることはできるから、一言半句不備を突かれることなくものを言うことは不可能ということにらるであろう。
それでも、言葉尻を取られることなくものを言わなければならない立場の政治家というのは大変である。
「こんな人たちに負けるわけにはいかない。」と言った言葉は、その言葉だけ取り上げたら由々しきことであると思うが、その場面をニュースで見ていて野ごく自然な感想をいうなれば、大問題として扱うというのには違和感を覚える。
マスコミは報道しないが、その現場の映像を見たけれど、「こんな人達」というのはプロ市民の活動そのものではないのか?
言葉尻を切り取って批判コメントをしている人たちは、これを見ても同じことが言えるのだろうか?外国人らしい人すら見える。

選挙の応援演説をする場は、演者がまず何を語るのかを聞いて、自分の判断を下すところだと思う。
そのために集まった人たちの中に、ヘイトスピーチそのもののようなプラカードその他を予め用意した上で大挙して押しかけ、「辞めろ」だの「「帰れ」だののシュプレヒコールで演説の声を聞かせなくするというのは、選挙妨害そのものであり、それをやっている側が常々主張している言論の自由の否定そのものではないのか?
これでは、そういう人たちに負けるわけにはいかないと言ったのは充分理解できる。
報道側も、こんな人たちと言われた人たちがどんな人たちだったのかというのを報道しないままで、一方だけを責め立てるのはフェアではあるまい。

日本の選挙戦においては、基本的にネガティブキャンペーンというのは無いと思っているが、それに近いマスコミの報道姿勢というものが今回はあるように感じていた。
番組に連れてくるコメンテーターも偏っているように感じたし、まともと思えることを言う人がいると、本業では売れていなさそうな芸人コメンテーターがまぜっかえしてしまう場面を嫌というほどみせつけられている。
局としての思惑はあるのかも知れないが、一般視聴者が判断できるように、公平な報道をしてほしいと願う。どちらを選ぶかは、選挙民の側なのである。

卑近な例では、選挙戦に大きな影響を与えたと思われる加計学園問題があるが、告発した職員らが公益通報者保護制度の対象になるかどうかということも、「一般論」としていうなれば、「非公知の行政運営上のプロセスを上司の許可なく、外部に流出させることは、国家公務員法(守秘義務違反)になる可能性がある」ということではないのか?
どう考えても、守秘義務違反の疑いの方が強いが、野党もマスコミもそこに触れることを嫌がっているように見える。
漏洩文書の内容の、どこがどう違法だとして説明責任を果たせというのだろう?
言い古されているが、悪魔の証明ではないのか?

「公益通報者」ということで保護の対象となるのだというのなら、、尖閣の漁船体当たり事件の動画をアップした人は、それこそ公益通報者そのものであったにもかかわらず、時の民主党政権下、理不尽に処分をうけた。
文科省のメモ漏洩は、とてものこと公益性とは程遠く、国益どころか意趣返しの側面の方が強いように感じる。

この問題追及に時間をかけ過ぎて、というより重要法案の審議をしたくないがために空転させた国会の報道についても、疑惑を煽ることに終始したのではなかったのか?

臨時国会が開かれるらしいから、真実を明らかにするために、全体像・これまでの経緯・議事録・違法性の有無など、公平に報道して欲しい。
マスコミは、事実だけを報道するという本来の姿勢に立ち返ることで、偏った思惑に添った報道で国民のミスリードを狙うということをやめないと、国民の信頼を失うことになるのではないかとも思う。
情報源はマスコミだけではない時代なのである。
報道の自由は、都合が悪い事は報道しない自由ということと同義語ではない。

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