2016年4月25日月曜日

70年も経てば実情と合わなくなっても不思議はないが

政治向きの話題は、ブログに適当だとは思わないけれど、疑問に思うことはある。
以下は、素朴に感じていることなのですが・・・

古くはユダヤ民族、最近では中近東の例でわかるように、国を失って難民になることがどんなに悲惨なことかということが考えの中にないという人は少ないことなのだろうか?

「憲法を守れ」というのは、憲法がある以上その通りには違いない。
憲法を守るのは、国(政府)なのであり国民ではないから、政府が憲法を守ることを優先して、国民の財産生命・国の安全保障ということを考えなくてよいとしたなら、国を失ったときの責任は誰が負うのだろうか?

領土問題というのもある。
竹島は違法占拠されたままだし、北方領土もそうである。
尖閣諸島もきな臭いし、南沙諸島も首根っこを押さえられる状態になる可能性を持つ。
北朝鮮は核ミサイルの標的を日本を据えているらしい。

70年も経てば、国際環境は変わってしまっても不思議ではないが、実情に合致する法体系というものには、全く触れてはならないものなのだろうか。
こんなときにも、無防備でいろというのだろうか?

安保法案に「戦争法」などというレッテルを貼り、戦争にならないように備えた筈の法の廃案を、野党が国会に提出するのだという。それで国は安泰になると本当に保障してくれるのか?
廃案が国防の為の対案だというけれど、説得力を全く感じない。

国会の議員数も、党名を変えただけのことで、勢力分布が変ってもいないのに、手順を尽くして成立した法律を、どうやって覆そうというのか。
審議時間を浪費しかねないことをしようとする正当性がどうみてもなさそうに思えてならない。
誰だって戦争は嫌であるが、国を失うのはもっと嫌なのである。

ただただ反対を唱えるのではなく、安全保障上の問題には、野党も国民が納得できるきちんとした対案を出し、双方が国の将来のために真剣に審議を尽くす姿勢をもって、場合によっては野党からでも憲法の条文を改定する提案がなされても良さそうに思う。

法というのは、法を守ることが目的ではなく、守らねばならないものがあるから法ができるのではないのか?素朴にそう思う。
誰もが100パーセント賛成するものはないが、安保法案については、安全保障上やむなしと考えている人の方が、周りには反対する人よりも多いように感じます。
感情論で済まして流されると、前大戦のようになるのではないのか?
戦争反対と叫べば平和でいられるというなら、それに越したことはないが・・・


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