2016年4月19日火曜日

ウシハク国ではなかった

世界には、龍を神と考える国と、逆に悪魔と考える国があります。
我が国では、おおむね神と考えているのではないだろうか。
出雲の国は、龍神信仰の地であったと思われるが、古事記や日本書紀に語られる国譲りというのが、それはそれで不思議に思える。
大規模な戦闘によってそれがなされたのではなく、主としては話し合いによってなされたように思えるからです。

「古事記」国譲りの条には、
「汝(大国主神-おおくにぬしのかみ)がウシハケル葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
我が御子(皇孫命-すめみまのみこと)のシラス国ぞ」とあって、
「ウシハク」と「シラス」を明確に区別している。
この「シラス国」という宣告に、対抗できなかった。

本居宣長は、ウシハクとは、「主(うし)として其の処を我が物と領居(はく)すること」と解釈している。
即ちウシハクとは土着の神々が、クニや山海などの「ある一定の場所を具体的に領有すること」をいう。
したがって、「天(あめ)の下」を統べるために正当性を持つものを、ウシハクとはいわない。
天皇がウシハケルとはいわず、シロシメスというのはそのためである。
天照大御神や歴代天皇にかかわるところでは しらす という言葉が使われ、大国主神をはじめとする一般の豪族たちのところでは うしはく という言葉が使われている。

こうなると、国を公平に治めようとする理念の正統性はどちらにあるのか?ということになる。
実際問題としてそんな綺麗ごとではなかったにしても、掲げる理念に対抗しきれなかった。

この しらす の理念に着目する限り、これこそが我が国の国体の本質であり、憲法制定時、これに基づかずして日本の憲法はつくることはできないと考えられた。

しらす 知る を語源としている言葉で、天皇は、まず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように我が心に写し取って、それと自己を同一化させ、自らを無にして治めようとされるという意味である。

「うしはく」というのは、西洋で「支配する」という意味で使われている言葉と同じである。
つまり、日本では豪族が占領し私物化した土地を、権力を持って支配するようなとき、「うしはく」が使われている。
「しらす」の理念こそが日本国の根本であるとされるのは、歴史的にそうであったことによる。
にごりのない心で、常に神の心、民の心を知るということが天皇にとって最も大切なことであり、従って三種の神器の中で一番大切なものとして鏡があるということになる。

外国では国家成立、憲法成立は、君民の約束といった形、国家契約といった形で成立したが、日本では何よりも神々の心、民の心を知ろうとされ、それに自らを合わせようとされる天皇の『徳』により国家は始まったということになる。


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